外国語教育や外国語との関わり方について考える「Languages」。前回に続き、アラビヤ語研究室の奥田敦総合政策学部教授と植村さおり総合政策学部講師のインタビューをお届けする。第2部では、お二人がムスリム(イスラーム教徒)になるまでを振り返る。

奥田教授がムスリムになるまで

学ぶなかで生まれた信仰心

奥田:
 ムスリムになったのは、イスラームについて学ぶうちに、そうならないことに理由がなく、説明もつかないことに気付いたからです。元々は学問としてイスラームを学んでいたのですが、知れば知るほど、その正しさを信じざるを得なくなりました。聖クルアーン(コーラン)には当然のことしか書いていませんから。本当に乱暴に言えば、人間ならまわりの人間に優しくしなさい、困っている人がいたら助けなさい、そういうことが書いてあります。僕は、それは正しいと思ったのです。
 人によっては、人生を左右するような劇的な出来事を契機にイスラームに入信するということもあるかもしれません。僕にも、最終的に入信を決心させた出来事(暑い夏の午後、調査に出かけた村のモスクで、ムスリムであると言わないばかりに、不信心者のレッテルを貼られてしまったこと)はありましたが、やはり、学んでいくうちに信じるようになったというのが正しいと思います。そして、僕がイスラームに惹かれていく過程のなかにはとても重要な出会いがありました。

法学徒として現地に足を踏み入れる

僕は、学生時代に法学を専攻していました。大学院では『七部法典』(西暦13世紀中葉にカスティリア王国のアルフォンソ10世賢王によって編纂され、中世ヨーロッパの3大奇跡の一つに数えられる法典)について、イスラーム法からの影響を検証する研究から始めましたが、のちに啓示を不易不動の法源とするイスラーム法の魅力を発見し、イスラーム法研究を専門とするに至りました。29歳のとき、シリアで在外研究(国立アレッポ大学アラブ伝統科学研究所)することにしました。 
 アレッポにいたのはおおよそ6年間。1993年から、SFCに来る1999年までです。私はまずアラビヤ語を小学校の教科書レベルから徹底的に学び直しました。大学院から学び始め、シリアに発つ直前には、法学書の翻訳などにも挑戦していましたが、実力が足りないことはよくわかっていました。1年間が過ぎようとしていたころ、ようやく専門の勉強に着手することにしました。シリアに渡る前からアラビヤ語原典で読んでみたいと思っていたイスラーム法学の古典がありましたので、それを指導してくれる先生を、イスラームを最もよく実践した都市ともされるアレッポに探すことから始めました。
 その本は、シャーティビーという13世紀にスペインのグラナダ(当時はイスラームの治下にあった)で活躍した学者による著作でした。旧市街の中心にあって、いまや内戦で光塔を失った大モスクに隣接するイスラームのワクフ省の図書館から始めた先生探しは、シャリーアを教える専門の高校の事務室で教えてもらった、キリスト教会の鐘がすぐ後ろに聞こえる古びた弁護士事務所で終わることになります。「シャーティビーといえばこの方」という先生がそこにいるというのです。そしてその先生こそが、僕とイスラームの信仰を引き合わせてくれるのです。

先生との出会い イスラームとの出会い

「シャーティビーを読みたいのですが」と訴える闖入者に、アフマド・マハディー・ホダル先生は、驚く素振りもなく、「いきなりシャーティビーは無理だから、優しい本から少しずつ読み進みましょう」と快く私の申し出を引き受けて下さいました。それと同時に、勧めてくれたのが、イスラーム神学の勉強です。「神学がわからなければ、法学はわからないよ」といって、アレッポでタウヒードならこの人というマフムード・フサイニー先生(旧市街に位置するアーディリーやモスクのイマーム(当時))を紹介してもくれたのです。
 ところでアフマド先生は、シャーティビーの読書会、それも私が読みたいと思っていた『ムワーファカート』という本の読書会を開いていました。その本は、4巻の分厚い本で、それを何年もかけて少しずつ彼らは読んでいたのです。当時のシリアというのは秘密警察が常に目を光らせていて、非公式に大勢の人が集まることはとても危険だった。そんな中で、僕は運良くその読書会の最後の2回に参加できたのです。集まっているのは、向学心に溢れた一般の敬虔な信者たち。彼らの学問への姿勢にものすごく感動しました。
 僕はシリアを出るまでずっと先生にお世話になっていました。ともに学び始めて、すぐに彼が敬虔なムスリムであり、彼の学問への真摯な態度は信仰に裏打ちされているということに気がつきました。そして何より教育者でした。「宗教というのは本来、泣き叫ぶ乳飲み子にとっての母の乳のようなものなのだよ」と教えていただきました。宗教とは、人々をその必要に応じて、助け、癒し、守ってくれるはずのものだということなのです。

本当のムスリムとして生きる

彼のオフィスには、宗教や法律について相談に来る人の他にも多くの人が訪れました。『ムワーファカート』の勉強の最中にも、しばしば貧しい人々が入ってきました。たとえば働けない夫を持つ妻、子どもの食事を手に入れることができない親。そんな人たちが施しを求めて彼のオフィスを訪ねてきました。先生は事務所の入っている建物の地下に貯蔵庫を持っていて、敬虔な商人たちから託された分も含む小麦や砂糖、お茶、様々な食べ物を与え続けていたのです。
 秘密警察を恐れることなく人々とともに学び、困窮者、貧窮者へ惜しみない献身をする。“Man is man.”(なぜかこれだけは英語だったのですが)は、先生の口癖の一つ。どんな人であろうと人であることには変わりはないことを人一倍弁えていた先生です。したがって、おごったところは一つもありませんでした。彼はモスクの説教台にすら立たず、親子以上に年の離れた若い弁護士の方々にもきちんと「ウスターズ(先生)○○」と敬称を付けて呼びかけられていたのが今も記憶に残っています。
 そんな先生を見て、これが信仰者というものか、と思いました。これが本当の意味でムスリムとして生きるということなのか、と。ムスリムとして生きるということは、小さなことにとらわれず、もっと大きなことを考えて生きるということです。小さなことというのは、人間関係だったり、自分の都合や利害だったり、そういうものです。大きなことというのは、天下国家のことではありません。アッラーのことです。この世にたった一つだけある完全なものとされるもの、それがアッラーです。アッラーのみを畏れて、敬い、小さなしがらみを捨てて、まずは自分のまわりの人々の幸せをしっかりと守りながら、人間らしく生きること、それがムスリムの生き方であり、先生の生き方だったように思います。

僕がイスラームに惹かれたのは、その教えを誠実に実践する先生からの影響がとても大きいのだと思います。先生の生き方に触れ、そしてイスラームを学んで、まさに「スィラートゥン・ムスタクィーム」(アラビヤ語で、「(天国の楽園へ至る)まっすぐな道」)を歩むことこそが、正しい生き方だと思えるようになっていったのです。当初、入信しようとすると私の後ろ髪を引っ張っていた「日本人であること」が、いつしか消え去ってもいました。日本へ戻ることになる年のたしか一年前だったと記憶していますが、冒頭の夏の出来事があり、入信したのでありました。
 なお、そんな先生とは、2011年9月のここ数年では最後になってしまったシリア訪問の時まで勉強会を続けていただきました。(シリアの内戦が激化する中、2013年2月28日の朝、先生は他界されました。もっともっとお話を伺いたかった。この場を借りてご冥福をお祈り申し上げます。)
 

植村講師がムスリマになるまで

(写真は関係者様からの依頼により削除させていただきました)

私もシリアで

植村:
 私がムスリマ(ムスリムの女性形)になったのも、シリアでした。修士の研究に必要なフィールドワークを行うために、奥田先生も設立に尽力されたアレッポ大学の日本センター(国立アレッポ大学学術交流活動日本センター、副所長に奥田教授)に滞在中でした。
 前回も言いましたが、私はAO入試で発展途上国の貧困問題をテーマに、2001年に総合政策学部に入学しました。縁あって、ちょうどその年から始まったアラビヤ語インテンシブ1を取りました。それまでは、現在のベーシックにあたる授業があるだけで、インテンシブはなかったんです。1999年の言語科目再編のときに奥田先生がキャンパスにいらして、2年の準備期間を経てようやくアラビヤ語のインテンシブが開講されました。当時は自分がムスリマになるとは思ってもいませんでした。

人が助け合うイスラーム社会を見て

イスラーム法や神学の基礎を少しずつ学ぶ中で、学部3年のころには、すでに改宗を考え始めました。奥田先生と同じように、私も学んでいくうちにムスリマとして生きようという気持ちが強くなってきたからです。SFCの特色は、アラビヤ語をイスラームと合わせて学ぶことです。アラビヤ語の授業や、当時も奥田先生が担当されていた、イスラームの文化社会やイスラーム法と神学に関するご講義を受けたりしながら、徐々にイスラームへの理解を深めていきました。
 シリアのアレッポでイスラーム社会に実際に触れたことも、自分にとっては大きな出来事でした。初めて行ったのは学部1年の時です。そこで見たのは当たり前のように助け合いがある社会でした。こういう社会もあるのかと驚きました。
 例えば、日本では貧困は国が解決すべき問題とされていますよね。私たちは税金を納めて、それを政府が使って貧困対策をする、簡単に言うとそういう制度です。でも、整った制度を介した貧困対策は、一方で、助けを必要としている人々の存在を直接見聞きする機会を奪ってしまう側面もあると思います。隣人の貧しさや大変さに無関心でも生きていけてしまう。そういうときに参考になるのが、シリアで見たようなイスラーム社会だと思うんです。
 シリアでは政府による貧困対策は決して十分に整備されているとは言えません。でも、制度がなくても、信仰を動機に身近なところから貧困を解決しようとしている人はたくさんいます。困っている人がいたら、まわりの人が放っておかない社会なんです。こうしたことを命じているイスラームが息づいている社会は、ある意味とても豊かなのではないかと思います。

(写真は関係者様からの依頼により削除させていただきました)

別の人間になったわけではない

学部時代は長期休暇のたびにシリアに行っていました。大学院に入り、現地で慈善活動をしている人たちを対象にフィールドワークをするなかで、ムスリマとしてシリアで暮らしながら研究がしたいと強く思ったことが決定打となり入信しました。
 アラビヤ語をやらなければ、イスラームもシリアで見た社会も知らなかったわけですから、アラビヤ語をやって人生が変わったと言えると思います。ただ、自分がまったく別の人間になってしまったのかというと、そうは思いません。イスラームに出会う前から、心のどこかでイスラーム的なもの、自分が真理だと思えるものを求めていたんだと思います。
 イスラームは、貧しい人、困っている人がいたら、一人ひとりが、たとえ微力でも自分に出来ることをして助けなくてはいけないと教えています。私は、それは真理だと思います。あとは、自分がやるかどうかという問題になる。もちろんやらないのもありです。でも、やるのもありですよね。そういうとき、自分の生き方としてどっちがしっくりくるだろうと考えると、自分がこれはいいぞと思う考えを実践しなければ、それを学んだ意味がないと思ったのです。
 だから、ムスリマになることを決めました。

(写真は関係者様からの依頼により削除させていただきました)