「頭の解錠」三野泰宏さん(環4)

CLIP Agora : 2008年01月25日配信

 秋学期の授業も終わり、4年生は最後の授業を受けながら、それぞれSFCでの日々に思いを馳せたのではないだろうか。今週のアゴラではそんな4年生の立場から「SFCらしさ」を語ってもらった。

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「頭の解錠」三野泰宏さん(環4)

 いま現在の私は、三田キャンパスで文学部美学美術史専攻の授業を受けつつ、GREEというSNSを提供する会社で週の半分以上、フリーのデザイナーとして、ユーザーとクライアントと代理店と社員の幸福のため勤しんでいます。朝6時くらいに起きてはジョギングに出かけ、家事を片付け炊事と一服の茶を楽しみ、休日は犬の散歩に付き合い、彼の足の向くままに住んでいる三田の街の新たな表情を知ったり。同居人の恋人とはそこそこ上手くやっていて、最近やっと読書への食わず嫌いを払拭した、同じくデザイナーである彼女に『陰影礼賛』を与えてみたりして、将来持つかもしれない子に薦める読書について密かに実験したりしています。そんな、読み上げたら耳にあんこが詰まってしまいそうな呑気な話とは反面的に、口外すべきではない類いの悩みも、それなりにあります。

 このささやかな生活のどこかにSFCらしさが流れているとすれば、「頭の鍵を外す癖」だと私は思っています。ということについて、気取らずに書こうと思います。ITに関して素晴らしいエンドユーザーになれましたとか、「プロジェクト」という作業に免疫がありますとか、三田に行くのも大事ですとか、そういう事を書こうかと思ったのですが、どうも私ごときが書いては面白くなりません。

 とりあえず入学までの経緯を簡潔に述べますと、私は高校時代に本気でキリスト教の洗礼を受けてしまって、しかし篤い信仰も束の間、アミニズムというか汎神論的な方向に歩んでしまった挙句、というあたりで環境情報学部に入学しました。

 宗教についてガサツに語るとバチがあたりますが、入学後とりあえず私は、教会が良くも悪くも自分にかけたヴェールを、解くことから取り組みました。学問と真摯に向き合うにおいて自分が用意しなければならないのは、色のついたメガネを外した視野だ、というつもりでいたのです。どこまで頼れるかはさておき、多角的とか多元的とかいう発想は、イチ青二才として備えるべき基本的で謙虚な姿勢に思えました。その辺りが「頭の鍵を外す」ためにもがいた第一弾。

 まず國枝総合政策学部准教授の研究会で「神の死」という時代を引き継いだ世代、ジョルジュ・バタイユあたりに手をつけ、「エロティシズム」という概念に始まり、宗教のしがらみをある程度解きました。あとはもう、興味の向くまま片っ端から、編集、批評、デザイン、フィールドワーク、美学美術史と、それはエトセトラに漂流しました。

 そんな風に漂流できるのもSFCらしさのひとつかもしれません。その漂流中にSFCという環境が自分に促したのが、とりあえず読む、とりあえず会いに行く、とりあえず実地に赴くという、積極的な実践感覚でした。「頭の鍵を外す癖」は、ここで味わったものです。

 SFC CLIP、SFC REVIEWの編集やメディア・リテラシーの授業では、丁寧にコネを辿って取材にこぎつける正攻法から、所謂「飛び込み」での取材依頼など、編集作業の中で色々と経験しました。「教養」というややこしい主題について福田和也環境情報学部教授や小熊英二総合政策学部教授に取材を挑んでコテンパンにされたり、加藤文俊環境情報学部准教授の授業ではフィールドーワークに傾倒して、そのとき既に有名になりつつあったラ・ベットラの落合務シェフにアポ無しでインタビューに行ったり。「無理かも」「敵わないかも」「理解できないかも」「順番おかしいかも」という、頭に知らず知らずかかっている「鍵」を外して、自分が本当に臨みたい対象を求める、このための努力を少なからず求められた気がしています。

 これは少なからずアイデンティティの問題も孕んでいて、生まれ育ちの話でいうと、裕福な家庭に育ったけど順等な道のりに嫌気がさしている都市生活者の友人とか、経済的にビハインドを抱えながら王道をシニックに見つつその上を志す地方出身者の友人とか、凡百の「一億総中流家庭」に育ちながら親の普遍的な価値観に復讐したい友人とか、話していると「頭の鍵」が外れた瞬間に、目がギラッと輝く人は多かった。私の周囲だけかもしれませんが、SFCには、ある程度しっかり、出自と対決しようとしている人が多かったように思います。

 そんな「頭の鍵を外す癖」は、環境にたいして自由な態度をとって、経験にたいして誠実に向き合う訓練法のようです。もしもこれがSFCらしさのひとつに挙げられるのだとして、私はSFCという環境に感謝すべきだなとしみじみ思います。

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