昨年12月に行われた塾生代表選挙の不適切な運営。3人の候補者の1人だった荒井暢史さん(総4)が、当選挙を通して考えたことについて語ります。

前回までの4回にわたる連載に引き続き、この回に取りかかっております。総合政策学部4年の荒井暢史と申します。記事がPVの人気ランキング上位に入ったり、Facebookで"いいね"を頂いているのを見るととても励みになります。

第5回からは、この連載の締めとして、今回の騒動や自治の現状、ならびに選挙公約作成の際に仲間から幅広く募った学内に関する意見や要望を踏まえ、自身のこれまでの学内生活を経ての所感を述べたいと思います。

私にとっての慶應

現在私は総合政策学部の第4学年に属しています。ここ、慶應の湘南藤沢の総合政策学部に進学することとなったのがもう3年前のことだと思うと、月日が経つのは早いものです。

入学した際の私の認識は、総合政策学部は人文社会を中心に扱うリベラルアーツの学部である、というものでした。研究会にも文系では哲学から語学、経済、政治、国際、社会学と幅広くあり、環境情報のカバーする理系領域のそれは言わずもがなです。そのため、実際に自分が何に取り組んでいくのか考えたとき、選択肢は多岐にわたっていました。1年時から日吉の一般教育科目や、日吉の設置学部の学生でも別途の登録が必要となる心理学教室の講義を受講することも可能であり、私も日吉の講義で埋めた曜日をつくり、心理学や一般教養の講義を受講していました。そうして受講した一般教養の講義の担当講師の自主ゼミや打ち上げに参加することで、自身の所属学部に限らないその他の学部の学生等と交じる機会に恵まれることになりました。

慶應という場

そうした機会は、総合と環境に加え設立当初の"三学"である文・経・法、そして商・理工といった学部設置の科目に触れることにつながり、総合大学としての慶應の懐の深さを体感することになりました。また、湘南藤沢でも所属した研究会の先生が、過去に三田で教鞭をとった後、湘南藤沢の開設に際して検討委員会のメンバーを務められ、その後総合政策学部で研究会等を担当されていることを知ったおりには、改めて慶應のキャパシティと歴史の深さを認識させられました。

こうした懐の深さ、多岐にわたる分野での取り組みとその横断性は間違いなく、慶應の学生としてーーつまり私たちが所属する大学の誇れる点であるはずです。そして現役の学生である私たちも、同様にその誇りを受け継ぎ育ててゆかねばなりません。先にあげた自主ゼミや打ち上げ、昼休憩や講義後に仲間内や先生と繰り出すことになった日吉の「まりも」や来往舎のファカルティラウンジ、さらに三田の「つるの屋」。湘南藤沢ではカフェテリアのSUBWAYやかまぼこハウスとSBCセンターがそうした場になりつつありますが、友人や先生からそうした諸々が受け継がれていく際の一場面に居合わせているのだという実感はとても貴重なものでした。

聞き慣れぬ語「本キャン」

しかし、歴史や伝統・気風というものは受け継がれていくと同時に時代や環境の変化にさらされます。慶應が現在の形になってから、私たちの社会が直面することとなった変化をあげると類挙にいとまがありません。ですが、そうした影響を受けていることの兆候を見つけることは、その変化を理解しようとする際に非常に有効な手段となります。

皆さんは「本キャン」という言葉が慶應生の間で使われ始めていることをご存知でしょうか。私が初めてその語を見かけることになったのは、Twitterのある投稿でした。その投稿はおそらく湘南藤沢の学生によるものでしたが、その後日吉の仲間内で「本キャン」という語について話を出したところ、そこでも「聞いたことがある」という反応が返ってきました。最近ではFacebookの投稿でも使っている人を見かけることがあり、広まりつつあるようです。最初私は、東大の本郷キャンパスか早稲田の本庄キャンパスのことを指しているのかと思いましたが、文脈をふまえると三田キャンパスのことを「本部キャンパス」としたうえで「本キャン」という語が用いられている様でした。

しかし、この語は誤用であり、慶應には"本部"と銘打たれたキャンパスはありません。各々の学部やキャンパスが独立性を保ちながら、かつ協調することこそが全学の発展につながり、「社中協力」などの気風につながるようにとのことではないかと個人的には考えています。こうした誤用や事実から離れた通称などが流布することは言葉においては珍しいことではありませんが、その語の成り立ちを考えることは、前述した"兆候"について考える上でヒントになります。おそらく本流・亜流という風潮により、"本部とそれ以外"という誤った認識が広まることとなったのでしょう。

これが端的に表わすのは、学生間での相対的な雰囲気や意識の変化のようなものでしょう。1990年代の大学進学率の上昇といった中で、学生の質の低下や大学のレジャーランド化(大規模化等による弊害)が指摘されるようになりました。それらの影響が、慶應のキャンパスや学生の雰囲気にも影響を与えているのではないでしょうか。

「post-truth」の時代の大学に

このように「本キャン」という誤謬から広まりつつある語をあげて、近年のキャンパスや学内の変化とその兆候の一例を示しました。そしてその傾向を裏付けるものとして、オックスフォード英語辞典が2016年を象徴する単語に「post-truth」を選んでいます。"事実に基づかない情報や感情による行動の傾向やその風潮"を指し、2016年の6月の「Brexit」や11月の米大統領選における投票行動や傾向を評する際に盛んに用いられることとなったのが選出の理由です。

その傾向は先ほどあげた「本キャン」という語によって身近なところにも現れています。なにより大学というものは知識と教養の為の場であり、特に「気品の泉源、知徳の模範」を掲げる慶應がそうした社会の変化やそれに応じて生じた問題に本来なら取り組んでいかねばならないところを、学生間で「post-truth」が進行しているのです。先ほど、"気風や伝統は受け継がれていく"としましたが、その過程は環境の変化にさらされるものでもあります。そうした状況においてこそ、自省や注意深い考察が必要となるはずです。

最悪の形での「"不正、公正妥当"による塾生代表」

さて、今回の塾生代表選挙における騒動では、そうした「post-truth」に対する反旗どころかその傾向が最悪の形で結実することになりました。たった424字の報告書内での「複数の不正行為が発生したが、公正妥当」という文言がそれです。第4回に明るいですが、なし崩し的に「全塾」と冠するようになった機関が(この経緯においても全塾協議会は"以前から全塾協議会は存在した"としながらその詳細は公表していません)、建設的な施策を打つことをせず場当たり的な対応を繰り返し続けました。結果として、"塾生代表"という仰々しい名称を用いた立場を新設し、常態化していた不適切な運営をこれまでにない強引な「不正行為が発生したが、公正妥当」という文言によって処理し、さらに問題を重ねようとしています。

予見された形での形骸化

また塾生代表の設立においても、2015年の不正が確認された選挙で当選した事務局次長が、2016年に局長となり、そのもとで提案され、これもまた例に漏れずに協議会の不十分な協議によって決定された経緯があります。2015年の不正に際して「不正が取り沙汰されたのは芝共立であり、三田の人間である自身には関係ない」と選挙の意義をまるで無視した言動をとった局長のもとで、全学生に関する事案が扱われているのです。こうした経緯で設立された「塾生代表」は当初から形骸化しています。設立の準備段階で「新設役職に関する意見公募」が実施されましたが、告知の不徹底からか集まった意見は事務局に所属していた私が提案した1件のみでした。その意見提出の際の全く歓迎されていない雰囲気は、その後の騒動を予感させるものだったのではないかと今になって思われます。

問題の象徴としての「塾生代表」

実際、選挙運営に加えて投票の呼びかけの段階においても、公約の詳細を公開したのは私だけであり、他の候補はその公約の表面的な提示を行ったのみです。また、私以外の候補による具体的な案は構内の施設利用や充実に関するものでしたが自治会費による予算では到底実現不可能なものでした。仮に大学側に働きかけを行い、その結果として予算が充てられることを目指すにしても、それに必要な交渉の場は塾生代表というものが充分に全学生の意を代表したものとして成立してはじめて実現しうるものです。

加えて、選挙において不適切な呼びかけやネガティブキャンペーンが発生することとなりました。1枚424字の報告書をうけ、承認された選挙結果によって塾生代表制は成立しましたが、その結果実現される可能性がある公約の中には「勉強会の実施による学問活動の充足」といった項目が含まれています。その会は"候補者が以前から私的に開催したいたものを引き継いで実施するのではないか"と私の友人は指摘しています。最初から役職の意義を見誤っているうえに、公私混同にもなりかねない施策が実施される可能性すら現実のものとなっているのです。また、監査中であるはずの期間に、過去に湘南藤沢自治会の問題において必要性が疑問視された「腕章」が塾生代表用に発注されていたという始末です。

当事者としての私たち

こうした一連の顛末において「不正行為が発生したが、公正妥当」という象徴的な文言は、もはや「post-truth」を通り越して、ジョージ・オーウェルのの小説『1984』での「Doublethink」や「Newspeak」を思い起こさせます。「Doublethink」は矛盾した2つの概念によって事実を覆い隠し、「Newspeak」は語彙や思考を意図的に制限することで抑圧や無関心を引き起こす話法を指しています。オックスフォード英語辞典による「post-truth」の選出を契機に世界的に同小説が売り上げを伸ばしていると報道されていますが、そうした状況において私たちはもはや矛盾や抑圧の当事者になってしまっているのです。本来ならば「気品の泉源、知徳の模範」、「社中協力」といった気風を担っていかなければならないところですが、「本キャン」や「不正行為が発生したが、公正妥当」が現状として存在しています。

一方で私は、前半において述べた慶應全学の雰囲気、そしてその根底となっている歴史や思想の潮流に、こうした憂慮すべき現状を今後克服する力があるのではないかと期待しています。今回の原稿に取りかかれるのも、期待と同時にこれが何らかの形で前進につながる確信があるからです。そしてその確信もまた、私が慶應において過ごした時間によって得たものです。

「塾生代表」について書けていない部分があるのではないか、と前回までを読んだ方からご指摘を頂いたため、それを盛り込んで所感の第1弾を「慶應全学について」という形で書くことになりました。分量が思っているよりもかなり多くなってしまいました。次回は、所感の第2弾として湘南藤沢について書いて、最終回とさせて頂きます。

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