一青窈、「ええいいああ」の母音のみで構成された歌い始めが印象的な「もらい泣き」でデビュー。その一青窈さんは、SFCの卒業生だ。彼女は今、邦楽界において注目のアーティストのひとりであることは間違いない。その一青さんにSFC CLIPが独占インタビューを行った。また、今回は試験運用という位置づけではあるが、SFC CLIP初の動画コンテンツも配信している。(編集部注:動画コンテンツは現在旧サーバより以降作業中です)


1,歌手 一青窈
1-1 歌手活動の原点は?
 歌い始めたのは幼稚園の頃からですね。たぶん、壺を焼く人も、和紙をすく人もサラリーマンも同じ感覚で、その中に一青窈がいるというかんじなんですよね。原点というよりは、好きなことを今まで続けてきたということなんじゃないかな。多分、父が台湾に残って、姉と私と母と3人で日本に来たのが幼稚園を卒園してからなんですね。その離れた時間を埋め合わせるために、例えば歌を歌ったり、父がディズニーのお話レコードというのを毎月送ってくれたりしていたんです。それを聞いていました。その内容は朗読があって、急に歌が入ったりして、ミュージカルのようなものなんですね。それを聞くことで、寂しくならなかったわけです。一種の現実逃避のようなものですね。だから、私は歌というものがとても必要だったのです。お弁当箱や手紙を少しみただけで、父の思いでにひきずりこまれちゃってたわけです。それに流されないようにしようとして、そこに音楽というものがあったんだと思います。たぶん私がその時にレコードじゃなくて、色鉛筆を与えてられていたら絵描きさんになっていたかもしれません。だから私の原点とあえていえば、そのレコードだったのだと思います。
-「歌手になろう」という強い願望はなかったのですか?
 人並みに名声欲はあるのかもしれないけど、人を蹴落としてまで、何かを達成してやろうとは思いません。周りにも私と同じような人達がいました。私の中では「歌手にならない以外に何があるの?」ってかんじです。同じ苦労、悲しみをするなら、好きなものに対してのほうがいいでしょ?それは好きな人にプレゼントあげるのと同じですよね。嫌いな人にプレゼントをあげて邪険に扱われれば腹が立つけど、好きなことならできるから。私は好きなことをずっとやってきたのだと思います。

1-2 歌うことに心がけていること。例えば一青窈ポリシーみたいなものはありますか?
 私には事故で車いすでの生活を余儀なくされた友達がいるんです。その友達とは、事故前からよく遊んでいました。車いすになった時点で、その友達は簡単に街に行くことができなくなったのですね。人も冷たいし、街も冷たいわけです。私がクラブで歌う時にその友達はクラブが地下だったりすると入れないんですよね。じゃあってことで、養護施設や老人ホームでイベントを行ったのです。その時たまたま聴覚障害者の方々の前で歌を歌うという機会があったのです。その時に掴んだものが私の今のポリシーにつながっていると思います。
  ちゃんと私自身が強い意思を持ってメッセージを伝えようとして歌わないと、相手にわかっちゃうんです。聴覚障害者の方は音が聞こえないわけですから、私の一挙手一投足と、内から出てくるパワーを感じるわけで、それしかないのです。何か強い意志を持ってメッセージを伝えないことには、全然感動もしてくれないわけです。初めて聴覚障害者の方々を前にしたイベントをやった時に、みんなにコンドームを配ったのです。風船よりも薄いですから、振動が伝わりやすいのです。そういうしかけを使ったけども、それよりも自分がちゃんと歌うということで、その方々に伝わった感をとても強く感じたのです。だから、詩にも本気で取り組む必要があります。歌う時に違うこと考えていたら、そういうことは伝わっちゃいますよ。それは人と話す時でも同じですね。あさっての方向を向いて話していれば、伝わりませんよね。自分がどう正しくあるかということだと思います。
  他の人はどう思っているかはわかりませんが、自分の言葉で歌うということをしてから、その思いが強くなったんですよね。例えばミスチルのカバーを歌ったとして、ミスチルの言葉が果たして私の言葉なのか?というのはありますよ。その言葉を借りて、どうやって自分の気持ちを伝えていくかなんですよね。私はカバーを歌ってた時に、「この言葉、本当に私が言いたくて言ってる言葉なのだろうか?」ということは思っていました。だから、自分で誌を書こうと思ったのです。ひょっとしたら、メロディーに対しても同様に「このメロディーでいいのだろうか?」という疑問が生じれば、違う音を出すんだと思います。今、それは歌い方につながっているんだろうと思います。近い将来、自分で曲を作るのかどうかは、わかりません。今は自分で言葉を書き、それを伝えるのに精一杯なんで、このまましばらくは模索するんだと思います。
2,SFCでの学生時代
2-1, どんな学生でしたか?
 SFCの1,2年の頃、サークルに入りまくってました。ありとあらゆるサークルに入り、ありとあらゆる友達をつくろうと思っていましたね。十何個入ってたんじゃないかな?最初の頃はパーティ感覚の女の子というか、格好はミニスカートにハイヒール、常にCanCam系。スカート履いてなかったら、女の子じゃない!みたいな格好で闊歩してました。研究棟の前の石畳の隙間にハイヒールがブスって刺さったりとか(笑)。そういう時期もあったり、ヒッピー系の格好をしてみたりとか。とにかくあらゆる格好をしたり、いろんな経験をして、自分に必要だと思ったことを絞って、必要なもの以外を3,4年で削ぎ落としていったかんじかなあ。
 こういうことが出来るのはSFCの良いところだよね。いろいろ出来るし。しかも、いろんな人がいますよね、SFCって。授業も面白かったですね。出会った友達にも恵まれていたと思います。建築に対する知識もファッションの知識も全て、SFCでの友達から得てますからね。人脈つくるのにはいいところですよね。福田和也研にいましたが、モンスーンという雑誌の初期メンバーと一緒だったんですね。自分はそれなりに広い知識あるかもな~なんて、うぬぼれてたりしたんですが、福田和也研究会に入って、見事にそれが消し去られました。「こんなオタクの人たちがいたんだ!!」って思いましたよ(笑)。そのおかげで今があるんだと思っています。全員が秋葉原の店員みたいなんです。何を言っているんだ~!ってね(笑)。

2-2, KOEではどんな活動をしてましたか?
 KOEでは、私のひとつ上の先輩がスパイスガールズみたいなバンドをつくろう!ってことになり、勝手に5人が集められ、「しょてっぱち」を結成したんです。私はそのバンドでのみ活動してましたので、KOE自体は2年で辞めてしまったんですね。サークル活動というよりは、バンド活動ですね。そのバンド活動は卒業後も継続してやってました。そのバンドがあったおかげで、今でもそのメンバーと一緒に活動してます。
-ストリートライブ活動に明け暮れてたのですか?
 面白いことやりたいということで、実験的に活動してたので、日々練習というよりは、どうすれば、それまでと違うかたちでバンドが出来るのかと考えていましたね。いろんなところでストリートライブやってたのは、営業活動も含めていたんですね。結婚式で歌ったりとか、サンシャインの屋上で歌ったりとか。園遊会でも歌いました。そういういろいろなことを楽しめるメンバーがそろっていましたね。
2-3, SFCで何を得ましたか?
 人間関係ですね。クラブイベントをやってたころに知り合った友達など、雑誌、演劇関係の友人が多いですね。今でもその友達から仕事をもらったりしますね。
-SFCに行かなかったら今の自分はないと言えますか?
 ないと思う。たぶん歌は歌っていたとは思うけど、どうなんだろう?SFCに行ってなかったら、こんなに世界は広がらなかったと思います。文系、理系の枠を取っ払っちゃうというのは、とても素敵ですよね。あと、頭いい人多いですよね。ICU(国際基督教大学)や早稲田も似てるけど、しゃべってて、つまんないな~と思う人がSFCにはあまりいませんね。みんな、ちゃんと考えてますよね。ただ毎日過ごして単位来ればいいや!っていう人はあまりいないですよね。
-そもそもSFCに入るきっかけは何だったのですか?
 私、早稲田の理工に落ちたんですね。その年に高校の先生が、SFCには9月にAO入試があるから受けてみたら?と言われたので、それで、ふ~んってかんじ。それまでは全然知らなかった。「未来からの留学生」ってあやしいなあと思いました(笑)。懐疑心ありましたね。でも入って正解でした。
-AO入試では、どんなことをアピールしたのですか?
 面接の時に三人の先生と真っ向勝負をするわけです。とてもコワイ先生、やさしい先生、ふつうの先生といたんです。コワイ先生がつっこんでくるんですよ。「音楽療法やりたいとかって言ってるけど、うちにはそんなのする学部ないんだよ!音楽って一体ナンボのものなの?」と言われたんですね。「歌ってけっこうパワーあります」って言って、その場でサウンドオブミュージックの"The hills are alive"をアカペラで歌ったんです。「でしょ?」ってかんじ(笑)。自分で満足してました。圧倒させた者勝ちのところはありますね。一対一勝負でどれだけはったりをかませるかっていうのは、今のキャンペーンにもつながっていると思います。いろんなDJや雑誌記者に対して、自分が5だとしてたら7,8を見せなきゃいけないわけですよね。たった数分の中で、もう一回取材したいと思わせなきゃいけないんですよね。AO入試ではじめてそういう経験をしましたね。クラブとかのイベントでも、面白いと思わせなきゃ、「次も出てよ」ってことにならないんですよね。
-圧倒するパワーがあったのですかね?オーラみたいな(笑)。
 何かを失うことを怖がってはいけないということですかね。私は両親がいなくなったということもあるから、失うことに対する免疫ができているんです。なぜかというと失った分だけ、得られるということを感じながら生きてくることができたからなんだと思います。プラスマイナスゼロはあっても、マイナスになることはないんですよね。絶対にプラスαになっているんです。だから、それぞれの時点で何か決断する時に、後ろ髪をひかれる思いで躊躇してたら、何も進めないですからね。さっくり切るものは切って、失うものは失って、前へ前へってかんじですね。
3,今後の一青窈
3-1, 新曲「大家(ダージャー)」はどんなかんじに仕上がっていますか?
 まさに先ほど言ったように、失ったものに対する気持ちを歌ってます。失ってはじめて気づいても、もう元には戻らないというのがサビです。タイトルは「大家(タージャー)」英語で言うとeverybodyです。自分の心象風景を素直に歌っているから、「もらい泣き」よりも自分としては、その曲が売れたほうがうれしいですね。でも、そこまでリスナーの人が聞いてくれるかどうかは、少し不安なんですね。なぜかというと「もらい泣き」というのは曲調もそうだし、歌い方もそうですが、全部フックがあったと思うんです。ええいああという造語はキャッチーだし。しかし、この曲はそういうことをひとつも入れてない曲なんですね。造語もないし、擬音もない。キャッチーな部分もないのです。ただ言葉だけが並んでいるだけ。それを聞いたときに、第一インパクトはないかもしれないけど、何回か聞くうちに、スルメみたいに味が出てくるんですね。それを我慢して聞いてくれるだろうかという不安はあります。
-「もらい泣き」は、曲調、歌い方が特徴的で、「元ちとせのようだ」と書いてあるメディアもありましたが、それ以外の曲では、曲調、歌い方もがらりと変わり、可変性が高いというか、いろんな歌い方をしていますよね?その時に自分の感じたことを素直にアウトプットするとこういうスタイルになるのかなと?
 たぶん私は、声質も変わっているわけではないし、歌い方自体にテクニックもあるわけではないので、人または音とどう反応していけるのかという半ばジャズのセッションみたいな感覚で歌っているから、私があなた(インタビュアー)と話している時の一青窈になるだけであって、歌がそうなら、そういう一青窈になるだけであって、だからいろんなかたちに変わっていくのが人間だと思うから、私としては、元ちとせさんに似ていると言われても、そうなのかしら?ってかんじですね。あんまり自分ではわからないですね。

3-2, 台湾でCD発売されましたが反応は?
 嬉しかったのが、普通、台湾に行けば"ウェルカム台湾"じゃないですか。だけど"お帰りなさい台湾(回家台湾)"と書いてくれてたんです。台湾人としてとてもあなたを誇りに思っていますと台湾の方々が受け止めてくださっていたようでそれは、とても嬉しかったです。
-今後も新曲をリリースする際には台湾でも同時にリリースするかんじになるのですか?
 そうですね。向こうのレコード会社の社長さんと会ったんですが、仲良くなったんで、これからもそういう方向になると思います。
3-3, 今後、どのような活動を展開していきたいと思いますか?
 たぶんSFCの文系理系の区別がないように、違う分野の人たちとコラボレーションしたいと思いますね。それは建築の世界かもしれないし、デザインの世界かもしれないし。その人たちと出会っていくことで、どのような詩が生まれてくるのかは面白いんですよね。ラジオ番組でそのような分野で活躍するひとたちを呼ぶかもしれないし。曲としてアウトプットするかもしれないですし。
-ありがとうございました。
インタビュアーの感想
SFCのOGということもあるせいか、インタビューは終始和やかな雰囲気でした。インタビューをしていて感じたのは、一青さんが徹底的なまでのポジティブシンキングの持ち主であるということです。それは、つらい経験、楽しい経験など、多くの経験を一青さんが味わっているからこそなのではないでしょうか。一青さんの口から出る言葉のひとつひとつには、経験に裏打ちされた確かな説得力がありました。