はじめまして、こんにちは。4期生の設楽と申します。
  この度、ご紹介をいただいて寄稿させていただく機会に恵まれました。
今回、こちらのサイトの性格と、私自身の日頃の仕事の方法とも関わってく"Collaboration"について取り上げました。


 Collaborationという考え方は、大変魅力的な響きを含んでいます。自閉気味に、独り机の上で作業をしているのとはおよそ対照的な、開放的で、快活で、動的なイメージがあります。しかし残念ながら、これだけ強くCollaborationの必要性が指摘され、その効用が期待されているにもかかわらず、かならずしもそれは高い成果を上げていないようです。
 高速のネットワーク・インフラが常時整備されていれば済むわけではなく、また、部門間の物理的な壁がなければよい、というわけではないことも次第に分かってきました。Collaborationは、自他関係を含んだ広義のコミュニケーション活動ですが、この問題は、今世紀最大の経営思想家でもある P.F.ドラッカーも指摘するように、《これまでかなりの数の知的な男女がこの問題に取り組んできたが、その実体は掴みきれていない》ようで、一口には捉えきれない奥行きと深さをもった問題であります。
 そこでここでは、"Collaboration"をめぐる論考のうち、今日でも比較的好意的に受け入れられ、参照されているものを手がかりに、 Collaborationを捉えるためのいくつかの視点を探ってみたいと思います。
 まずはじめにM.シュレーグを取り上げてみましょう。彼がMIT(マサチューセッツ工科大学)のメディアラボ研究員時代の成果をもとに書き上げた著書 "Shared Mind"(1990)(現在は、"No More Teams"(1995)に改名)は、Collaborationについて考えるとき、今でもしばしば言及されます。この本では、編集者と作家、監督と俳優といった事例を取り上げながら、Collaborationの魅力と可能性について意欲的に描写しています。
 Collaborationの魅力と可能性といえば、近年、Collaborationについて積極的に発言を行っているR.ハーグローブも、"Mastering the Art of Creative Collaboration"(1998)をしるし、NASAの火星探査計画など複数の事例を取り上げながら、Collaborationを進めるための効果的な手法を提示しました。
 他方、人間の創造活動を、ジャズのjam sessionになぞらえながら、ユニークな「ジャミング論」を唱えているのが、"Jamming"(1996)を著したHarvard Business School教授のJ.ケイオーです。より効果的なJammingを繰り広げるための方法とアイディアを断片的ながら提供しています。ここで注目すべきは、〈対話〉〈信頼〉〈信念〉をJammingの三大要素としながら、《独裁的な環境では創造的文化は栄えない》ことを指摘している点であります。
 
 この関連で言えば、慶応大学名誉教授で第2代総合政策学部長であった井関利明教授は、「ディジタル・メディア時代における『知の原理』を探る」 (1998)という論考の中で、次のような指摘を行っています。デジタル・メディアを仲介として異質なもの同士を積極的に結び付け、求心力のつよく働く専門閉塞型の知とは対照的な〈開かれた、多様な知〉を促すには、3つの陥し穴、すなわち①「権威ある常任指揮者」の登場、②無用な葛藤・非生産的な対立の発生、③他人の立場、見解、問題などへの関心の喪失が避けられなければならないことに言及しました。
 さて、先ほどCollaborationと関連するタームとして〈対話〉が取り上げられましたが、Collaborationといい、Jammingが広義のコミュニケーション活動であるからであり、自他関係を言語を通じて豊かにしようとすれば、おのずと対話の問題に触れざるを得なくなるからです。ここでの関心にひきつけてみると、日本を代表する哲学者・中村雄二郎は、この対話の効用について、主旨として次のようにいっています。すなわち、《対話の愉しさとは何か。それは、時に袋小路に入り、一見逸脱しているようでも、気が付くと、自分ひとりでは到達し得なかった地点に自分がやってきていることに気づくことである。そのとき私は、独力ではみえなかった風景を見ることができる》と。ここには、他者との対話を通じてえられる効用、すなわち、対話の持つ自己の視界を押し広げ、自らの思考の枠組みを組み替える側面が指摘されています。
 このように、対話や相互の関係を深めていく中で、互いに自己を書き換え、つくり直していくプロセスに着目したのが、〈共進化(co- evolution)〉という考え方です。もともとWIRED誌の編集委員で、先端的問題にきわめて敏感なK.ケリーは、"Out of Control"(1994)のなかで、この〈共進化〉について大きく一章を割いています。そこではサイバネティック・ホーリズムの主唱者としても名高く、G.ベイトソンの弟子でもあったS.ブランドを引用しながら、〈共進化〉を次のように定義しています。すなわち、《共進化は学習の一種である》《共進化の本分は前進することである。すなわちそれは、たえず不完全な部分を探し出しては、体系的に自己を教育することである。生態系は維持を行うが、共進化は学習していく》。さらに、《共進化する生物のしていることを表現するには、〈共同学習(Co-learning)〉とでも言う方が的確だろう》とまでいっています。ここでいう〈共同学習(Co-learning)〉とは、教え/教わる関係が同時に成立している状態であって、したがって、一方向的に知識や技能を伝達する伝統的な〈教授(Teaching)〉概念の対概念として使われています。
 また、Collaborationを多様性という側面から光をあてたものとしては、たとえば元マッキンゼー出身で、日本でも人気の高い経営コンサルタント・T.ピータースの"The Circle of Innovation"(1997)があります。そのなかで彼は、〈マッキントッシュの開発チームには、芸術家と技術者が混ざり合っていた〉ことに触れ、〈その芸術的関心は、技術的関心と同じぐらい強かった〉ことを指摘しています。なにより「すごいこと」を成し遂げるのは誰か?との問いに、アップル社の S.ジョブスを挙げ、《人間が成し遂げた最高のものに触れ、その最高のものを自分の仕事に取り入れよう》という彼の言葉を引用しています。
 リーダーシップ論の泰斗・W.ベニスは、"Organizing Genius"(1998)のなかで、6つの事例を通じて、この本の副題でもある「創造的なCollaborationの秘密」に迫ろうとしてます。ゼロックスのパロアルト研究所、1992年の米国大統領選挙におけるクリントン陣営、ディズニーのアニメーション・スタジオ等が取り上げられています。
 なお、卓越した洞察力を持つ社会生態学者のP.F.ドラッカーは、名著"The Effective Exective"のなかで、「専門家に成果をあげさせるには何をすべきか」と自問し、次のように答えています。《成果をあげるためには、貢献に焦点を合わせなければならない》《〈組織の業績に影響を与えるような貢献は何か〉を、専門家自身に徹底的に考えさせる》ことが重要であると指摘しました。また、《専門知識はそれだけでは、断片にすぎない。専門家の産出物は、ほかの産出物と統合されてはじめて成果とすることができる》から、専門家は《常に他人から理解される責任をもつ》としました。
 さて、Collaborationは、いうまでもなく、いわゆる専門家と呼ばれる一群の人々の占有物ではないはずです。むしろ今日では、行過ぎた専門化の弊害も目立ってきており、かえって「しろうと(Amateure)」の役割が積極的にクローズアップされるようにもなってきました。その一例として、 Self Help Group(自助集団)があります。自助集団とは、〈ある共通の問題を抱える個人によって組織化された当事者グループ〉のことで、代表的な例として、アルコール依存症者匿名協会(Alcoholics Anonymous: AA)や、元精神病・神経症患者によるリカバリー・グループなどが挙げられます。これらはいずれも、医師などの専門家に寄りかかることなく、同じ経験や受苦をかかえた当事者、すなわち非専門家集団による情報交換や経験的ノウハウの交換に、より高い価値を認めています。ここで交換される情報や知識は、専門的知識に根ざしているとはいえないことから、専門的枠組みから外れた、いわば「しろうと・アマチュアの知」なわけですが、そこに有効性と効用とを経験的に認め、受け入れているのです。
 このような「アマチュアの知」については、批評家としても名高い、コロンビア大学のE.サイードも、『知識人とは何か』(1995)のなかで、別の観点からですが、行過ぎた専門化を批判し、アマチュアの知のもつ豊かな可能性をさまざまな角度から擁護しながら、その積極的な価値を前面に押し出して論じています。
 ともあれ自助集団という、非専門家によって構成される問題解決集団の特徴には、①共通の問題・テーマを抱えた当事者によって組織されていること、②専門職からの独立性を確保していること、③自発性に基づいて組織されていること、④〈自助〉と〈相互支援〉が行動規範として根づいていること、⑤(それによって)自助集団を構成している個々人が、自身の〈課題解決能力〉を開発し、高めていく、といった点があります。
 大変雑駁ではありますが、このようにCollaborationをめぐっては、実に多様な分野からの関心を一手に引き受けているような感じさえいたします。SFCを見渡してみたとき、個々の研究室が、相互に交流もないまま群居しているのではなく、立場の異なるもの同士が活発に混交しあうクロス・ジャンクションなっていくことを、心より楽しみにしております。