今学期からアラビア語インテンシブ外国語が始まった。「文化や宗教もできるのは SFCだけ。イスラム世界にとって言葉はとても重要です。アラビア語を学ぶことで彼らを理解することができるかもしれない。」と総合政策学部、奥田敦助教授は熱く語ってくださった。


インテンシブ外国語になった意義は何ですか?

SFCでしかできない

SFCが始まったときから、アラビア語はインテンシブの言語として位置付けようということだったんです。教員の不足の問題もあり、今学期からになってしまいました。
 しかし、アラビア語がインテンシブ外国語として学べるというのは、いろんな意味で画期的なことです。大切なのは、アラビア語はアラビア語にとどまらないっていうこと。つまり、SFCっていうキャンパスの中で行われているってことがすごく大切。私の「宗教と文化」という授業ではイスラムの宗教と文化の関わり、人々の暮らしまで学ぶことができる。「国際比較法制論」ではイスラム法。阿川さんがアメリカ憲法を担当していますが、この組み合わせを同じキャンパスで表裏で教えている。これはSFCでなければできないことです。  
 さらに、「リージョナルアナトミー論」では神学を教えます。アッラーとはとは何のか理解できなくてもとイスラム世界を見る目が変わるんです。宗教や文化、イスラム神学までやらせてくれる大学はそうありません。歴史の先生は多くいるけれど、イスラム世界が一体どんなもので、それが持っているルールがどんなものか、人々がどんな生活をしているかは教えられていない。教える枠組みがないんですね。
 しかし、SFCのこの枠なら、法学神学も地域分析論や文化と宗教もできる。それプラスのアラビア語なんです。これが大きい。

コーランについて

イスラム学というのは、すごく間口が広いというか、受け皿が広いんです。コーランには何でも書いてある、といわれています。たとえば、普通の善良な市民の普通の人たちの師弟が、小学校に入る前の夏休みに子ども達をモスクに送る。そこで、コーランの勉強をして、預言者のムハンマドの言行録の基本的なところを勉強します。そこには「人間どう生きるか」というのが相当トータルに書いてある。
 だから、科学に対するアイディアとかも当然のことながら含まれているんです。たとえば、コーランの中に、天体としての地球とか、地球の地理的な問題も含めていろいろなことが書いてある。科学の領域も含むし、人間の精神的なことも含むし、それから一番多いのは社会的なこと、ルールに関すること。親孝行しなさい、親に対して悪い言葉使いをしてはいけないなどと書いてある。
 しかし、しばしば人々は、そんなところに迷信みたいに書いてあることに従うのは、ナンセンスだ、と言う。宗教ってそういうものだと思っているんですね。
 だけど、その本自体は何億の人がそれを本当だと思っているか、というと、13億人。5人に1人が、みんなその本はそうだって言っているんです。その中にはもちろん、科学者や医者も大勢いる。そういう意味で、近代的な科学のフレームにいた人間が見ても、信じざるを得ないくらいの真理が含まれているんです。 
 そういうふうに広いものなので、その受け皿というのが、大学っていうところで、どんな学部でそれができるのだろうか、と考えたときに、SFCという環境が非常に適してる。なので、僕自身は、ここでこういう研究・教育をしているのを、大変うれしく思っているし、誇りに思っています。
 コーランはアラビア語で書かれています。だから、アラビア語わからなかったら、やっぱり分からない。だけど、それがわかれば、分かるかもしれない。

アメリカテロ事件をコーランから考える

ユダヤキリスト教の世界が、ちょっとおかしいと思うんです。右のほほを打たれたら、左のほほを向けなさい、というキリスト教徒の人たちが、今報復しようとしています。その報復自体は(テロが)ある種犯罪なので、報復っていう方法はありえるでしょうが、右をやられたら左を出せと言っている教えがあるにもかかわらず、それに従わずに、報復をやる、と言っている。  
 彼らの教えの元は、聖書。英語の聖書です。われわれ日本人は日本語の聖書を持っている、アラブにはアラビア語の聖書がある。でも、言葉が違ったら、解釈がその段階で変わっててきてしまいます。イスラムは「書かれた文化」です。アラビア語でない訳されたコーランはもうコーランではない。ある主の解説本でしかない。言葉を大切にする文化なんです。

言葉の文化

日本社会というのは、暗黙の了解というのがたくさんありますが、アラビア語の世界というのは、コーランにこう書いてあるのを、どうしてわからないの、という、そいういう説得の仕方ができる社会なんです。おいしいものは「おいしい」って言わなければ伝わらない。ものをはっきり言うことで伝えていく文化という側面があるために、言葉はとても大切で、コーランの教えのレベルと、社会のレベルの両方のレベルで、言葉をしゃべる、言葉で分かるということが非常に非常に大切。
 だから、アラビア語というのは避けて通れない。イスラム教徒、アラブ人が何でそういうことを考えるのか、というのを理解しようとしたら、アラビア語をさけて通れない。どっちかというと、どうだった?という学問じゃなく、どうあるべきか?という規範などを示す法学や神学と言葉がセットになっているのが特徴的。

SFCのインテンシブ外国語

ちょうどSFCの流れでは10年たって、インテンシブというのはある程度できて、成功を収めました。ところが、インテンが終わり、その後どうするのかという、問題は画然と抱えている。結局、しゃべれるようになった、語学のスペシャリストになるのかな、というのも一つの生き方ですが、総合政策学とか環境情報学とかをひっくるめたところで、インテンというのは一体どういう役割なのか、というのは考えな いといけない。
 そのときに、アラビア語というのは、言語をやって、それが結局大学での一人一人の興味関心を膨らましていく上で、言葉というのがどう位置付けられるのかを考える上では、とてもいい。ちゃんと、全体としてつながっていて、だから言葉なんだ、といえる。
教材はどんなものを使っているんですか?

教科書を学生と共につくっていく

教材というのは、これは、生きた社会が教材だと思っているって言っておきましょうか。確かに、教材は作りました。シリア人の先生が、スキットを考えてくれて、SAをやっている学生が絵を書いたりして、一応できあがったのだけど、これ自体は生まれたてで、クラスの皆さんと育てていきたいんですね。スペースをふんだんにとっていて、自分自身の教科書を作るつもりで、教科書と向き合って欲しい。そのアイディアをフィードバックしてもらって、教科書もコースも成長していけるように。まだ最初なんで、手探りな状態。これから、共に育てていこうということです。

生きた教材を

現地の社会が教材。というのは、アラビア語では予定では、インテン第2期をシリアでやる予定です。2期や3期を終えてからの仕上げとしての現地研修ではないんですね。つまり、勉強したことを、試すのではなくて、勉強しにいく。なぜかというと、アラビア語の看板なんか、湘南台に一個もないし、この言葉を話している人も全くいないし、環境が全くないからないんです。
 環境がない場合、バーチャルな空間でそれを作って、なるべく現実に近いようなものを教材としてを出していくという一つの方法があります。最初は私も、学生が見れば、現地にいるような気分になれるようなものを作ろうと思いました。SFCっぽくビデオの教材を作ろうと思って、去年と今年の3月に、ゼミの学生を連れて、シリアに研修の旅行に行きました。
 しかし、ビデオ教材では伝えきれないものが山ほどあるんですね。みんなで現地でビデオを撮るというそのこと自体が勉強。缶詰状態で、アラビアの会話を覚える。苦しいこともあるのだけど、一緒にやっていくのはいいもので、こっちのほうが教育なんじゃないかって思うようになりました。
 難しい言葉だから、文字も発音も文法も違う、何もかもが違います。英語なら、英語のボキャブラリーが日本語にかなり入っているから、類推つくけど、アラビア語のボキャブラリーはほとんど入っていない。だからほんと基礎的なことをこっちでやって、生きた環境の中で学ぶことが重要なんです。

語学教育の問題点とシリア研修

SFCの語学教育の問題点の一つとして、少人数といいながら、実は大人数であるというのがあります。アラビア語インテン履修者は30人ほどいますが、 30人全員を落ちこぼれさせないように、みんなが理解した上で進む、っていうそれを確認するだけで時間がかかるんですね。でも現地でだったら、5人で1クラスで勉強できます。
 午前中は授業をし、午後は1日交代で家庭教師でグループワークにしようと思っています。生徒1人に対して、家庭教師を1人です。しかも先生は、英語も日本語も出来ない人を選んでもらって、もうアラビア語でやり始めないと、もうどうにもならないという状況を作る予定です。
 グループワークはアラビア語の辞書プロジェクトを考えています。現在、アラビア語日本語辞書というのはいいものがないんです。だから、毎年一人100個ずつデータを集めてもらい、10年くらいかけて作っていこうと思っています。「何々っていう単語をおじさんからこういうシチュエーションで聞いて、出てきた文章はこうだったっていうのを誰が入れた」というところを含めて、そのプログラムが一応出来上がっています。 それで一日6時間という時間を2週間くらいびっちりやったら、日本で30人の教室でやるより、よっぽど効果があるのは明確です。
学生に期待するすることはなんですか?

日本人の認識

今回の事件でも分かるように、日本人の多くはアラブ、イスラム世界を身近な存在として見ていないんですね。一般的な中東・イスラムに対する認識を変えていく必要があります。
 かくまっていたという理由だけで、タリバンを全滅させるとうことがどうしてイコールになってしまうのが、私は分かりません。日本人は、タリバンイコールイスラムになってしまっている。でも実際は、タリバンというのはほんと一部。しかも、イスラムから言えば、語弊があるけど、私の知り合いのイスラムの宗教者は、タリバンは無知だと言っています。イスラムの教えを広く勉強すれば、ああいう風に壊すこともなかったと思うんです。
 アメリカでは6千人近くの人が亡くなりました。しかし、同時に30年40年にわたって戦闘状態を強いられて、多くの難民を出したり、ミサイルをぶち込まれて、死んでいったり、する人たちがたくさんいるんです。

グローバルスタンダード

アメリカの人たちの痛みは分かるのに、アラブの人の痛みは分からないというのは、もう教育観の違いです。これを埋めることができなかったら、たとえグローバルガバナンスといっても、意味ない。それは、グローバルスタンダードイコールアメリカのスタンダードで、それを押し付けることだ、で話が終わってしまいます。そんなこと勉強しようとしているのじゃないです。
 貧富の差が開いて、そこで勝ち組みにならなかった方の人たちでも、ちゃんと幸せに生きていけるようなシステムを考えないといけない。

日本の対応と

今度のラディンの話でいえば、我々に知らされているのは状況証拠でしかありません。状況証拠しか持っていない人間に対して、それをかくまっている人間まで殺していいといっているのはおかしい論理です。
 日本は沖縄でアメリカ人の兵士が婦女暴行を行って、現行犯でそこにいる犯人を逮捕するのに何年もかかっているのでしょう。日本政府はその問題さえを解決できないのに、何でウサマビンラディンと、タリバンをやっつけるためには、自衛隊を派遣していいって言えるのでしょうか。

日本人の心理

何でそんなことが起きていまうのかというと、心のどこかで、アメリカ人は自分と同じ人間だけど、アラブ人やイスラム教徒は違う人間だと思っているんですね。
 中東を旅行した人は分かると思いますが、実は面倒見のいい愛すべき人々なんです。そういう人たちの人間性に触れて、いい人たちだな、と思うようになったら、その地域に対する見方が変わります。まずは友達を作って信頼関係を築いて欲しい。それは、何らかの価値を共有することです。そういうことの積み重ねが、グローバルガバナンスを考える上で大切なんです。
 理論とともに、実践ということがセットになっていないといけません。理論は誰でもいえる。それを実践していくのが、難しい。そこを学生諸君には期待してやっていただきたいと思っています。  
アラビア語と他のインテンシブ外国語との違いはなんですか?
 アラビア語の場合には、他の関連領域とのリンクをかなり意識して作っています。言語の性格上やむをえないけど、現地主義を貫きたい。アラビア語は特に、プロになるのに時間がかかります。中東の専門家でもアラビア語を読めないん人がいるんですから。
 SFCはマルチリンガリズムを掲げているけど、大学でこれだけの言語を教えているよ、ということだけでなく、一人一人の学生がマルチリンガリストになって欲しいなと思っています。そういう願いをこめて、他の言語をやってもらうためにアラビア語は期間を短くしようと思っています。
ありがとうございました。