ノーヘルグラスホッパーさんはSFCの一年の時からの長い付き合いなので、当コラムの誘いを受けました上本竜平と申します。とはいえSFCを卒業してまだ三ヶ月程度。学生として今も活動の延長線上にいるので、SFCについて改めて振り返るには、まだ感慨が足りない気がします。ここからは、最近の出来事からひとつを取り上げて、いまの自分へとつなぐものを書きます。

6月の日曜日

ある日、メディアの地下にあるあのスタジオぐらいの小さな劇場に行き、そこで中野成樹+フランケンズというひとたちが演じる、ノルウェーの作家イブセン作の『「人形の家」より第3幕』を思いがけず見ることになった。その日はたまたま三組のオムニバスを一公演とする形式のイベントが行われていて、その内のひとつが友人たちによる芝居だったので、他の劇団については何も考えることなく、足を運んでいた。
 この偶然出会うことになった中野成樹+フランケンズによる『「人形の家」より第3幕』は、簡単に言ってしまえば夫婦が抱える問題を、口論を要にして表していくものなのだが、妻であるノーラが夫に向かって、私は奇跡を期待したのよ、と述べるところがこれは格好いいのだ。

私は奇跡を期待したのよ

夫ヘルメスが見せる態度に冷めて、それは奇跡と言い放ってしまうと同時に、それでも期待していた、と恋めいたものの存在についても表す。ノーラはそれまでの夫との関係の間で抱えた心境を歯切れよく表すことができた。奇跡という言葉で表すぐらい救いようが無いけれど、期待しているからここにいるのさ。ノーラはこのように自らの身の上を説明し、その瞬間が二人の関係を解き放つ。ノーラはヘルメスの家を出て行く。
 口に出す言葉は、そのほとんどがつまらないことだけれど、だからなのか時に爽快なまでに行動の意味を明白にするものがある。口にする言葉だけでなく、私たちが日々書き続けていく文字も同じだ。イメージも、日々撮り続けられることで、自分のいまを明らかにし、それをひとに伝えるものになる瞬間を持つときがあることをわかって、人々が使うようになるのだろう。将来は、私は奇跡を期待したのよ、と多くのひとが夫婦喧嘩の末にイメージとして伝えている。

私は奇跡を期待したのよ ひきつづき

この日については、もうひとつ言える。そもそも、何をやるのか知らずに劇場に行くことからして、変な話だった。
 舞台にしろ、映画にしろ、何も考えずに前払い制である劇場に入ってしまうというのは、信じられないことになっているのではないだろうか。見る内容についての評判どころか、広告・PRを含め全く情報が無いということは、雑誌・TVはもちろん、インターネットが日常化している現代では、思い返せば殆ど無いのかもしれない。いつもどこからか集まってくる人だかりと受付らしき存在だけを頼りに足を運ぶとしたら、それはどんな心境だろう。
 知識を先に、情報を先にとしている内に、気軽に話せるケータイに辿りつき、友達と会って食事ついでに話をし、TVを見て雑誌をめくる。それが舞台を見ることである必然性はないけれど、決まった時間に行われることが身近なところにひとつあって、気分に合わせて時々覗いてみることにする。何があるかを問題にして行くのではなく、何かがあるので劇場に顔を出す。これが生活の一部に、劇場があることだ。

私は奇跡を期待したのよ またあすね

SFCでの4年間を超えて、引き続きイメージと劇場について考えている。常に自由に、好きなことを追いかけることのできる4年間だったからこそ、遅々とした歩みながら今も進み続けることができているのだと思う。この長い付き合いが、その理由を一言で表す言葉によって、ノーラとヘルメスよろしく解き放たれる。ここが格好いいのだ。
 最後にSFCの皆さんに。周囲の評価を冷静に受け止め、格好いいなんて奇跡に過ぎないと言い放ちながら、期待を胸に粘っていこう。ダメなときこそ、しぶとくいこーぜ。
<プロフィール>
上本竜平(うえもと・りゅうへい)
渡辺靖研に1年半所属、総合政策学部を03年度卒業。
大学院では、環境経済学・コミュニケーション理論を通じ、文化産業システム(特に視覚芸術の産業化)の再検討に取り組んでいる。