私は被爆者の父を持ちます。戦中生まれの親を持つ同級生も少なくなってきた世代です。
自分に与えられたこの「被爆二世」という肩書きは、自分でも深く考えることがあります。
長崎に生まれた若者として、被爆者の父を持つ者として、自分がやるべきことは一体何だろうか。
都合がつけば平和公園まで出向いて平和祈念式典に参列してみたり、後輩が始めた「高校生一万人署名活動」を手伝ってみたり。ただそれはあくまで長崎での活動であり、私が大学入学以後に考えるのは、平和活動を東日本で考える機会が少ないということです。
9.11テロやイラク戦争についてのデモ行進が都内で何度か行われましたが、それに参加しているひとはおそらくほんの一握りでしょう。
半世紀以上も昔の反省のおかげで(昨今は幾分危機感があるものの)保たれている現在の平和。
それはデモ参加者や被爆地のひとびとだけが享受しているものではなく、日本中のひとびとが実際に享受しているものです。
ただ、それを感じる機会が少ないということなのだと思います。


平和活動は、政治活動につながると認識されがちです。確かに政治活動につながることをしているひともいるのでしょうが、ほとんどのひとは純粋に「平和について考えよう」と活動としているにすぎません。
まあその線引きは難しいものかもしれません。
1年に1度、せめてこの時期だけでも、ちょっと考えてみませんか。
実際に行動を起こさなくても、まずは祈りを捧げるだけで構わないと思います。
6日を忘れていたひとは、9日、15日。半世紀前のことについて、親しいひととの話題にしてみましょうよ。