「食わねば走れぬ」

25までの経験がその後の人生の核を決定してしまうのだという。先日26を迎えた僕には一体何が決定されてしまったのか知る術もないが、それならば依頼されたこのCLIPの連載を喜んで引き受けようと思う。決定されてしまった以上、表現する事、伝える事により重きを置いてもいいと思うのだ。

本郷毅史

タンザニアの田舎のレストランにて。ギャラリーが多すぎる。
 テーマを「食らいし路上の地球」とし、あの喜望峰から日本まで3年半かけて自転車で旅した先々での、路上に展開された「食」を書き綴ろうと思う。路上にこだわるのはそれがあらゆる意味で最上の食卓だったからだ。自転車で旅をするということは、路上を食すという事と同義である。食わねば走れぬと一心不乱に食らった舌と胃袋の記憶を頼りに、これからアフリカの片田舎やアジアの路上で展開された食の場面の数々を紹介していこうと思う。
 自転車で旅をするには食わねばならぬ。飯はすなわち走行距離になる。旅を始めて一ヶ月ほど経ち、南アフリカからナミビアへと駒を進めたときにその事を知らされた。
 次の街まで十数キロ地点で動けなくなった。まだ日没には十分時間があり、次の街に辿り着くのは時間の問題と思われていた矢先であった。体からすべての力が抜けてしまったのだ。いきなりペダルが踏めなくなったのだ。はじめはそれがなぜだか全く分からなかった。休めば回復するだろうと思い、道端に自転車を投げ出して横になった。しかし横になったら急に眠気が襲ってきて、しばし寝てしまったようだった。
 起きて見るともう日没だった。あわててまた自転車を漕ごうとしたがどうしても漕げない。そんな筈はないと思うのだが自転車にまたがり数メートル漕ぐのがやっとの有り様だ。次の街までの高々十数キロの距離が果てし無く長く感じられた。
 そこは見渡す限り地平線しかない荒野だった。仕方がないと這うように道端の草むらの陰にテントを張り、張った途端にテントに倒れ込んで眠ってしまった。
 真夜中に起きた。食わねばならぬと思ったが生憎食料は無かった。散々探した挙げ句砂糖を見つけ、紅茶を沸かし、砂糖を食らった。ばりばりと大さじ何杯も砂糖を食らい、紅茶で流し込んだ。翌日の朝、砂糖のカロリーがまだ残っていたようだ。日の出とともに出発し、永遠かと思えるような十数キロを走り次の街に辿り着いた。
 この経験が食うことが何たるかを教えてくれた。食う事はすなわち走行距離なのだった。これは飽食の国から来た身にとっては驚愕の出来事であった。人間は食う事によって動く生き物であるということを僕は知らなかったのだ。
 それ以後、食う事は最優先事項となった。食わねば走れぬとたらふく食い、かつ飲んだ。噛み砕き、しゃぶりつき、咀嚼し、飲み込んだ。目の前に何が出てこようとも、それがその土地の人間の食べ物ならば、「食わねば負けだ」と意地になって食った。無菌であった僕の胃袋は、結果激しい拒絶反応を繰り返す事になる。
 しかし、食わねば走れぬ。
 僕は意地になっていたのだ。その土地の人間が食い飲んでいる物を僕が拒否するのは負けだと思い込んでいたのだ。そして、何度も何度も下した。下痢という日常を過ごすはめになった。しかし、苦しみながらも、こんな無菌の胃袋など痛めつけてやれと開き直り、なお食う事に執着した。食わねば走れぬ、食わねば走れぬ、と呪詛のように唱え旅を続けた。
 結果、言いたい事がある。路上や場末にこそ最上の食卓はあると。
 それは味の「勢い」の問題なのだ。旅の過程で、五つ星の高級レストランからハエがたかり腐った汚物の匂いがする屋台まであらゆる種類の食の場面があった。なるほど高級レストランは美味い。しかし、姿勢を正し高い金を払って食うと、元来の貧乏性からか胃袋までかしこまってしまい、食い物が舌の上で踊らないのだ。
 路上や場末の飯には「勢い」がある。裸電球の下で、手掴みでむしゃぶりつくうまさ。手

本郷毅史

西アフリカのマーケット
当たり次第に屋台を食べ歩き、自身の胃袋と競争するように食らう歓び。無造作に皿に盛られた食い物を、狭いテーブルでその土地の人間と肩を寄せ合い食らっていたときには、確かに無上の喜びと旅情があった。
 では実際にどう路上を食らったのか、次回からの連載に期待して頂きたい。
【本郷毅史】(ほんごう・つよし)プロフィール
1977年生まれ。13歳で富士山自転車旅行を経験し、16歳のときにはカナダで述べ45日、4千キロの道のりを自転車で旅した。1997年、慶應義塾大学環境情報学部に入学。2年経過した1999年の2月に、喜望峰から日本の自転車旅行(3年5ヶ月、40カ国、4万5千キロ)を開始した。現在は復学、 SFCに通学中。ホームページに旅の紀行文を連載中。