魔味 アチャケ

それは不思議な食べ物だった。名をアチャケといった。
コートジボワールのアビジャン郊外のキャンプ場にいた頃のことだ。僕は連日途方に暮れていた。エチオピアのアジスアベバからアビジャンに飛行機で飛んだのだが、自転車がロストバゲージになってしまったのだ。途方に暮れつつ、ただただ自転車が出てくる事を祈りながらキャンプ場で寝起きしていた。


 アチャケを食べたのはそんな時の事だ。これほどまずい食べ物があるかと思えるものだった。消しゴムのカスの味を(出来るのなら)想像してもらいたい。僕は「腹が減ってりゃなんでもうまい」という幸せな胃袋を持っていることを誇りにしているのだが、初めてそれを食べたときはあろうことか残してしまった。
 キャンプ場は街の中心から17km離れた海岸にあった。すぐ側には小さなマーケットがあり、僕はリ・ソース(ぶっかけ飯)屋やサンドイッチ屋、揚げバナナ屋などでよく食事をしていた。
 アチャケ屋を見つけたのはアビジャンに来て数日経った頃だった。裸電球がぶら下がる
小さなレストランで男たちが群れていた。何を食べているのだろうと覗くと、男が店の前で籠の中から穀物のようなものを手で鷲づかみにして皿に盛り、辛いピーマンと玉葱をスライスし、揚げた魚を載せ、油を少し垂らして出していた。面白そうなので一皿頼んだ。100CFA(セーファーフラン)だという。約15円だ。これは安い。
本郷毅史アチャケ屋さん。ここで一皿貰って中で食べる
 しかし、半分ほど食べた後でこれ以上食べられなくなった。その独特な酸味に耐えられなくなったのだ。この穀物のような食べ物が一体何から出来ているのか全く分からなかったが、ぱさぱさしており、一口ごとに顔をしかめる始末だった。消しゴムのカスと言って悪ければ、よく絞りミキサーにかけたぼろ雑巾の味と言えばいいだろうか。
 これは屈辱的な出来事だった。出された食べ物を残すなどという行為はありえないと思っていた。もったいないからではない。後で悔やむからだ。何かのタイミングで手持ちの食料がなくなり、腹を減らしながら自転車を漕いでいるときに「なぜあの時残したのだ!あの時残さずに食っていればこんなに腹が減ることはなかったのだ!」と猛烈に悔やむからだ。後で辛いことが明白なだけに残す事だけはしたくなかった。
 こんなひどい食べ物、もう二度と食べるものかと思った。しかし、ぼろ雑巾のあの味の中にある何かが引っかかってしまったのかもしれない。数日後その店の前を通りがかったときに、またふらっと注文してしまった。
 今度も決してうまいとは思えなかった。しかし今度は全部食べる事ができた。それに腹が膨れる事だけは確かだ。これだけ安く食べられて少なくとも空腹は満たされる。お金を節約して旅をしている身分にとってはそれだけで有り難い。
 自転車は一週間経ってから無事見つかった。嬉しさと安堵からと言う訳ではないが、次の日また注文してしまった。やはり目を白黒させて食べたが、やっと食べ終わって顔をあげた瞬間にうまかったと思っていた。ここでしか食べられない、安い、地元の人が皆食べているという付加価値があのぼろ雑巾にどう作用したのか分からない。驚いた事に、確かに一瞬「うまい」と思ったのだ。味の中のどこを探せばそんな形容が見つかるのか見当も付かなかったが、確かに食後に満足感があった。また食べようと思った。
本郷毅史これがアチャケ。入れ物が洗面器である。
頻りににその店に通うようになったのはそれからだ。地元の人と同じ食べ物を「うまい」と思って食べている事が誇らしかった。そして回を重ねる毎にそれは本当に美味くなっていった。不思議という他なかった。
 アビジャンではトラブル続きだった。ロストバゲージの後は日本からの小包の受け取りに大いに手間取り、最後にはクーデターまで勃発した。独立以来はじめてのクーデターで、大統領が追放され、街の中心部には戒厳令が敷かれた。しかし、何が起きようと腹は減るものである。そして何が起きようとマーケットには人が群れて、食料が売り買いされ、屋台が並んでいるものである。僕は戒厳令が敷かれ銃声が時折響いていても、恐る恐るキャンプ場を出て、ぶっかけ飯を食べ、アチャケを食べた。そこにはしたたかに生きている人々の普段と全く変わることのない生活があった。国家が転覆しようとも、マーケットはびくりともしていなかった。結局20日間もアビジャンに足止めを食らってからガーナへ逃げるように出国した。
 ちなみに、この食べ物が「アチャケ」という名であることを知ったのはコートジボワールで青年海外協力隊として働いていた女性にモロッコで出会った時である。なんでもアチャケはキャッサバという芋から手間をかけて作るのだという。彼女はこう言っていた。
 「キャッサバってそのままだと毒があるの。青酸カリの一種があるんだって。だから毒抜きして手間かけて作るのよ。私もはじめは不味いと思ったけど、病み付きになったわ。なんか変なもの入っているんじゃないかしら?私あれ絶対常習性あると思う。」
 魔味、アチャケ。食べたい方は西アフリカへ。
本郷毅史
ブルキナファソの子供。後ろは日干し煉瓦でできたモスク

【本郷毅史】(ほんごう・つよし)プロフィール
1977年生まれ。13歳で富士山自転車旅行を経験し、16歳のときにはカナダで述べ45日、4千キロの道のりを自転車で旅した。1997年、慶應義塾大学環境情報学部に入学。2年経過した1999年の2月に、喜望峰から日本の自転車旅行(3年5ヶ月、40カ国、4万5千キロ)を開始した。現在は復学、 SFCに通学中。ホームページに旅の紀行文を連載中。