おいしいベトナム


 正直に言うと、僕はカンンボジアからベトナムに入ったその日にもう「ベトナム最悪、早くこの国を出たい」と真剣に思い詰めてしまった。頭に来たのだ。そのがめつさに。
 カンボジアは穏やかで笑顔の絶えない国だった。誰も彼もが自転車で通り過ぎてゆく僕にとびきりの笑顔で挨拶をしてくれた。道端でかき氷などを食べて、いくらか分からないので適当に手持ちの小銭を手のひらに載せて差し出すと、遠慮がちに1枚か2枚そっと取るような人達ばかりだった。


 それに引き換えベトナムといったらない。食べる前にいくらなのか聞いて、どう考えても高いので適正値段らしき額に下げて、しっかり合意してから注文して食べたのに、その額を払うとやり手ばあさんが「足りない」などと言い出す。もしカンボジアでやったように小銭を手のひらに載せて差し出したら、全部取られた上に「足りない」と言い出すに決まっている。そんな訳で第一印象は最悪だった。なんというがめつさ。なんというしたたかさ。しかし、そんな印象も次第に変わってゆく事になる。
 ベトナムに入国して数日経った頃。
 夕方自転車を漕いでいて、気がついたら学校帰りの女子高生の集団に囲まれていた。アオザイの少女達に囲まれていた。
 アオザイとはベトナムの女性が着る民族衣装である。日本の女子高生の民族衣装(?)である制服などとは比べるのもばかばかしい程セクシーな服である。上衣は体の線にぴったりとしており、ズボンはあくまでもふわりとしている。色は白がほとんどで、たまにピンクや紺色などもある。生地が薄いので下着がすけすけなのである。ブラジャーが透けるのは別にそんなに有り難くもない。それぐらいの免疫はある。しかしパンツまで透けるとは一体どういう事なのだ。初めて見た時は度肝を抜かれた。さらに風に長い髪と上衣が揺れて、上衣がふわりと持ち上がると、切れ込みの間から脇腹が見え隠れしてぎょっとする。この脇腹の三角地帯を“魔のアオザイトライアングル”と言うとか言わないとか。
 そんな危険なアオザイが高校の制服なのだという。こんなセクシーな服を制服にしてしまうとはとんでもない国だ。同じ教室で授業を受けている男達はさぞ辛かろう。
 下校中のアオザイ女学生に囲まれながら一緒に自転車を漕いで、あくまでもさりげなくちらりと魔の三角地帯を目にした時、「ベトナム、いい国ではないか」、といとも簡単に第一印象は覆された。
 事の成り行きで、食事とは何の関係もない事を書いてしまった。これで「おいしいベトナム」のエッセイを終わらせると、とんでもない誤解を招きかねない。おいしかったのはもちろんベトナム料理である。賢明なる読者諸氏はもちろん分かっているとは思うのだが。
本郷毅史ホーチミンの街角で
 「チェー」という食べ物を発見した。これはベトナム風ぜんざいである。街の一角でなにやら老若男女が一心不乱に食している屋台があった。その大多数がアオザイ娘だったからではなく、あくまでも社会文化的調査の為に覗くと、何種類もの具が屋台に並べられていた。人々はこれとこれとこれなどと指差し、おばちゃんはそれを次々とコップに入れてココナッツミルクや練乳を注ぎ、最後にかき氷を入れて渡している。具は、ナタデココ、タピオカ、白玉団子、緑豆、あずき、寒天、サツマイモ、ピーナッツ、バナナ、マンゴー、各種ドライフルーツ等々。こんなオンナコドモが食べるような物を、夕日に涙する熱血闘魂チャリダーが食べてられるかと一瞬思ったが、なかなかどうしてうまそうである。注文してみたら、あえなくやられた。地雷を踏んでしまった。そしてそれから連日欠かさず食すようになった。もうそれしか考えられない。たまに、何かの拍子にチェー屋が見つからなかったら、頭を掻きむしり悶え苦しんだ。(ちなみに、「チャリダー」とは自転車で旅する者の事を指す一般名詞である。しかし僕は、夕日に涙するような熱き心を持っていないとチャリダーと名乗る資格は無いと勝手に決めている。)
しつこく言っておくが、チェー屋に下校中のアオザイの女学生がたむろしているからこんなにはまったのではない。風が吹いた時などに、ついつい反射的に“魔のアオザイトライアングル”に目が吸い込まれる事も無きにしも有らずだったが、それはそれ、これはこれ。
 僕はとてつもない猛暑の中を、ひたすらに北上していた。
 時折オアシスのように現れるチェー屋に驚喜し、飛び込んでいた。もちろんカフェやフォー(ベトナム風うどん)屋やサトウキビジュース屋などにも飛び込んでいた。
 そんな屋台で、今までの僕の人生であるいは1つの頂点だったのかもしれないという出来事が度々起こった。実に不思議な出来事であった。
 どういう訳かたまたま居合わせたうら若き女性やその店の娘のとんでもない視線を度々感じたのである。こんな事、帰納的思考では説明がつかない。もちろん僕もその視線に負けじと応戦していた。そうこうする内に、その娘の父などが登場して「あいつはお前の事を好きなのだが、どうだ」などとささやく。どうだとは一体何がどうなのだ?しかし、改めてそのうら若き女性を見ると、にっこりと今花開いたかのように微笑むではないか。ミステリアスカントリー、ベトナム、何がどうなっているのだ?
 だがしかし、考えてみれば不思議でも何でも無い事にすぐに気がついた。今までが余りにも不遇なだけだったのだ。僕はこの時、はっきりとベトナム人女性の眼力の確かさを見た。
だが、しかし、
「彼女のような美しい娘を今まで見た事が無い」
と答えたはずだったのだか、口を開いてみると
「彼女は美しい。でも世界で2番目だ。僕には恋人がいるのだ」
などとほざいていた。
 これは半分本当で半分嘘だ。このとき僕は一心不乱に(まだ恋人ではない)ある人の元へと馳せ参じている最中だったのである。せっかく親も認めている清らかな交際のチャンスを、何度指をくわえて見送ったか分からない。つくづく自身の潔癖さが悔やまれる。しかし、ものの数年も経てば蚊をも殺せぬようなあの可憐なうら若き女性も、道端や市場などにいるあのやり手ばばあに豹変するのかと思うと、(今に始まった認識ではないが)つくづく女とは恐ろしい生き物だと思う。
 また、事の成り行きで話がずれてしまった。このエッセイの主題はあくまでも“おいしい”ベトナム料理の事である。チェーの事に話を戻そう。
本郷毅史ベトナム、ニャチャンの海
 あれは確か、ハノイの南90キロにある街、ニンビンであったと思う。この街で出会ったチェー屋の恍惚は忘れられない。
 夕方いつものようにホテルに荷物を運び入れ、シャワーを浴びてから街を歩き回った。夕食に2、3軒の屋台をはしごし、フォーやベトナム風お好み焼きを食べたと思う。満腹になりしあわせな気持ちでチェー屋を探していたら、2軒見つかった。その2軒は露骨に客の数が違っていた。一方は閑古鳥が鳴いているのに対し、一方は立ち食いしている客までいるのである。
 当然、混んでいる方にする。普通は何種類かトッピングするものだが、この時は期待に胸を膨らませ、注文は「全種類」にした。ほんの少しずつ、20もの種類の具がおばちゃんの慣れた手つきにより入れられた。ココナッツミルクをどろりとかけて、かき氷をその上にかける。長いスプーンを突き刺してにっこり笑って渡してくれる。どうにか空いている席を見つけて座り込んだ。
 食べた。言葉にならない。食べた。にやけてしまう。食べた。ため息が出る。
 このとき僕はゆーさんという7年間チャリで世界一周をしているチャリダーと一緒であった。(余談であるが、彼を見ているとグルメとスケベは同義語ではないかという定理が頭に浮かんだのだが、僕という1つの反例により成り立たない事に気付かされた。)
 僕とゆーさんは、お互いチェーに対して熱き想いを抱いていたので、一歩も譲らず、侃々諤々(かんかんんがくがく)と「チェー論議」を戦わせていた。曰く、「氷がかち割りだとハーモニーが乱れる」だとか「甘さの尖り具合がタピオカを殺している」だとか「ドライフルーツの主張が食感と共鳴しない」だとか。
 しかし、この時ばかりは無言だった。無言で、お互い一口ごとに繰り広げられる即興芸術に酔いしれていた。
 そう、それは即興の、2度と味わえない偶然が織り成すセッションだったのである。インプロビゼーションが闊達だった。ひとさじのすくわれた具が口の中で踊った。次のひとさじは、さっきとは全く別の踊りを見せた。こういう組み合わせもあったのか、なるほどこういう組み合わせもありえるのか、と一口ごとに全く別の音楽に聞き惚れた。歯で感じる食感のハーモニー、舌で感じる味のセッション、それが刹那に発火するように踊り、瞬後、消えた。一口スプーンですくって入れると、今度は白鳥の湖、今度はセラック崩壊雪崩、今度は砂漠の嵐、今度は月夜の少女の涙・・・
 無言で食べ終え、目が合った。首をかしげた。同じ事を考えていた。もう一杯注文した・・・。
 という訳で、どうやら「おいしいベトナム」のエッセイの主旨は達成されたようなので、これで終わる。さらにこれ以上書くと調子に乗ってぼろが出そうなので、この『食らいし路上の地球』の連載も終わる。今まで読んで頂いた方とSFC CLIPの編集部の方々に感謝したい。なお、もっと読みたい方は僕のHPにでも来てくれたら幸いである。
【本郷毅史】(ほんごう・つよし)プロフィール
1977年生まれ。13歳で富士山自転車旅行を経験し、16歳のときにはカナダで述べ45日、4千キロの道のりを自転車で旅した。1997年、慶應義塾大学環境情報学部に入学。2年経過した1999年の2月に、喜望峰から日本の自転車旅行(3年5ヶ月、40カ国、4万5千キロ)を開始した。現在は復学、 SFCに通学中。ホームページに旅の紀行文を連載中。