新潟県中越地震から約10ヶ月。震源地にて被災した祖母家族は、「激震ゾーン」だった川口町に住んでおり、今もなお仮設住宅で暮らしている。今回のエディターコラムでは、筆者が訪れた川口町の現在の様子をお伝えする。


 東京と新潟を結ぶ関越自動車道を、新潟方面に向けてしばらく走っていくと、「震災復旧区間、ご協力お願いいたします」という看板が見えてくる。道路自体は既に復旧しており通行できるようになっているが、まだ仮復旧の段階で、道路に空いた亀裂を埋めているだけだ。道路は橋脚のつなぎ目部分のところどころに上下の段差があり、車も大きく揺れる。インターの標識も地面で横に折れ曲がっているものもあり、とても高速道路を走っているとは思えなかった。

川口町に着いて周りの山々を見渡すと、いたるところで地肌が見えてしまっていた。つまり、地震などにより山の形まで変わっているのだ。そんないつ崩落するか分からない崖を横に通り過ぎながら道を進むと、この地域では珍しい灰色の建物が並んでいる。被災者のための仮設住宅である。
 仮設住宅に入ってみると、意外に清潔でインフラも揃って(ADSLも使える)いるのだが、冬は何もないと床が冷たく、夏は鉄板のように壁が暑いという。もちろんエアコン等があるのだが、この地域に多く住むお年寄り達には厳しい環境である。

▼外に張ってあるのは寒さ防止のウレタン材
 それでもこの仮設住宅が利用できることに、お年寄り達は大変感謝しているという。地震直後には田舎を出て、都会に住む子供夫婦の家にお世話になる世帯が多かったそうだが、やはり環境に適応しづらかったという面もあり、この土地に戻ってこれることが、なによりもうれしかったようだ。
 しかしこの地域の多くの家は全壊、もしくは半壊している。祖母家族の家も半壊し、崖が近くにあったことから、別の土地の移転を決めている。周りの家々も、あちこちで家の建て替えが始まっているものの、施工業者の手が回らない状態である。

▼中にはまだ取り壊しが行われていない家もある
 今回の地震で一番大きな揺れを観測した川口町だったが、地震発生当初から、今もなお苦難が続いている。
 長岡市・小千谷市とは対照的に、地震発生翌日以降は、川口町は全くマスコミに取り上げられなかった。そのため救援物資も川口町には、ほとんど届かない状況が続いたという。それまでの間、お互い必死に食料を確保し、ユンボを使える町民を集め、自力で孤立状態を脱したそうだ。
 川口町が震度7だということが発表されると、マスコミはこぞって取り上げるようになったが、その後再び忘れれた町となった。現在の問題は復興費用の格差だという。
 テレビに良く取り上げられ義援金が集まった旧山古志村、新潟市からアクセスが容易なで、芸能人などからのチャリティーが集まった長岡市と比べて、一人当たりに割り振られる義援金に、数倍も差がついているそうだ。
 そのような条件にもかかわらず、町は復興に向けて動きつつある。夏が終われば厳しい冬がやってくるが、それを乗り越えれば春がやってくる。その頃には多くの住居が完成し、再び家族が笑顔で生活ができる日がやってくることであろう。