今年の1月28日(金)に創刊した下北沢のタウン誌「ミスアティコ」。現在では、下北沢で5000部を発行している。編集長を務める木村和穂さん(04年総卒)に、下北沢の魅力にとりつかれるまでの経緯と、下北沢の大規模な再開発に対する思いを聞いた。11月2日(水)に下北沢で行われるミスアティコ主催のトーク&ライブイベント「シモキタ解体 -下北沢を揺さぶる再開発の欲望を問う-」の見所も語ってもらった。

下北沢の再開発については以下のURLが参考になります

1.「下北沢ヒルズ」ができてしまう?!
—木村さんはSFCを卒業してからどのような活動をしているのですか?
 東京大学の教育学研究科比較教育社会学コースに所属し、社会学を専攻しています。歴史社会学という領域で、戦前・戦中期の音楽教育について研究しています。でも、実はここ1年は休学をしています。下北沢の再開発を取り巻く状況について研究をしようかなと思い立ち、下北沢にいるわけです。
 実際、研究といっても大して研究らしいことはしていません。というのも、いろいろな活動が忙しくて、研究どころじゃなくなってしまっているという状況なんです。
—木村さんが取り組まれている下北沢の再開発の問題について教えてください。
 市街地を貫く、環状7号線と同じくらいの幅のある大きい道路「補助54号線」と駅前に大きなバスロータリーをつくる計画があります。これは戦後すぐに計画された都市計画道路で、通称マッカーサー道路と呼ばれています。戦後復興の中で東京の都市計画が練られたときにつくられた道路計画です。それが60年近く放置されたまま眠ってきたんですよ。ずっと眠ってきて、これは永久につくられない幻の道路だろうと思われていた。
 それが突如、復活したんですね。なぜ復活したかというと、下北沢を走る小田急線を地下化する工事が行なわれている。それはすでに決まっていて、進んでいた計画です。しかし地下化するにあたって、それに合わせて、下北沢一帯を再開発しようという計画になったのです。
 そうして60年前の計画も掘り起こされてきた。街を大きく変えるとなると何か大きなインパクトがないと変わらないもので、この道路を通すことによって、周辺の区画整理が一気に進んだりだとか、高さ制限か緩和されたりだとか、いろいろなことができるんですね。その起爆剤として、この道路を作ろうということになった。
 これはただ道路を作るというだけではありません。駅周辺の建物の高さ制限も一気に緩和されて、駅周辺が高層ビルになるんですよ。高さ60メートルの「下北沢ヒルズ」が建つんじゃないかという話もあります。駅の北口周辺は大きなロータリーに面することになるので、その周囲に高い建物が建てられるんですね。今、下北沢ではせいぜい2階から5階くらいの建物が主流ですが、高さ制限が緩和されることで、街全体の構造が変わってしまうと思います。
—計画に対して下北沢の住民はどのように動いているのですか?
 下北沢は自生的にできた街です、今回の計画はそれを全部作り変えてしまおうということ。交通量が増えたから道路をつくるというような計画じゃないんです。再開発のために、莫大な税金を投入して街を作り変えましょうということなんです。お金の儲かる街に作り変えようというふうにも読めます。
 この計画が明らかになったのは3年前のことです。もうそんな計画が実行されるはずはないだろうと思っていた住民が驚いて運動を始めました。下北沢で30年続いているバーのマスターである山崎さんと彼の飲み仲間が起こした運動が「Save the 下北沢」です。計画が実行されれば、今の下北沢は潰れてしまう。このあたりにある良いバーは立ち退かされる。歩行者が自由に歩くことのできる「路地の街」が消えてしまう。自分たちの行き場所がなくなってしまうということで、彼らは運動を始めました。少しずつそれが広がりを見せていって、チラシ、署名活動、WEBサイトなどを介してネットワークを広げていったんですね。
—木村さんは、どのようにして下北沢に関わるようになったのですか?
 僕がこの問題に関わるようになったのは、「Save The 下北沢」という活動をWEBサイトで知って、下北沢の周辺に住む一住民として興味を持ったところからです。再開発計画の地図を見て、まずは詳しいことを知りたいと思って話を聞きに行った。そうしたら、あまりにも不合理な話なので驚きました。そして、自分でできる範囲内で「Save The 下北沢」の活動を手伝うことができればと思いました。
 下北沢はすごく面白い街です。自営業やフリーで活動している人が多いんです。音楽ライター、ジャーナリスト、写真家、ミュージシャン、建築家などフリーでインディペンデントで働いている人たちと僕は巡り会えました。
 そうしてたまたま下北沢で出会った仲間たち数人と「ミスアティコ」というフリーペーパーを始めたんです。今のところ3号まで出ています。これは単純に、「面白いことを下北沢でやりたい」ということがきっかけにあります。「Save The 下北沢」で出会った人たちを中心にSFCの学部時代の友人も多く関わっています。

—「ミスアティコ」の名前の由来は?
 シモキタという文字をローマ字で書いて、適当に組み合わせてできたもので、特別な意味はありません。「ミスアティコ」という音がかわいらしいかなと思って。
—「ミスアティコ」編集部のメンバーは何人くらいいるんですか?
 コアメンバーは、僕とあと4、5人くらいで、具体的な編集、特集の内容に関わる話をします。ほかには記事を書く、取材をする、営業に回る、配布を手伝うなど、いろいろな関わり方をしてくれている人たちがいます。お金が発生しない活動なので、基本的にみんながやりたいことをやってもらう。モチベーションがすごく重要だと思うんですよね。
—雑誌のコンセプトを教えてください。
 第一に情報誌にしない、ということ。どこのランチがおいしいとか、安いとか、誰がどうだというような情報誌は商業誌でたくさんある。僕たちはわざわざそういうことをやる必要はないなということを最初に決めたんですね。
 また、個人的な視点、ちょっとずれた視点から下北沢を取り上げたいという気持ちがあります。そして、同時に、情報としてちゃんと使えるものを掲載したいという気持ちもあります。たとえば、「◯◯喫茶店で見た絵が気になった」という記事を掲載したときに、読者が実際に◯◯喫茶店に行くために最低限必要な情報は掲載しようということです。情報誌としても使えるけど、単なる情報誌としてはやりたくない、という感じですね。
 もう一つ重要なことに、下北沢の中に横のつながりを作りたかった。もっと文化的に盛り上げたいと思うんです。下北沢にはすごいポテンシャルがある。しかし、せっかくの面白い人なり活動なりを文化的なまとまりとして発信していくという動きはこれまであまりありませんでした。僕たちがメディアを作ることで、それを実現できればと思います。
 そのため、何かを「紹介」するだけの雑誌には絶対したくないと思っています。何かを「紹介」するとなると、すでにあるお店や人についてできるだけ正確にその良さを伝えるというスタンスになってしまう。この雑誌は街に積極的に介入して、新たな動きを作り出し、ものと人の関係や認識に影響を与えたいんです。まだ実現できているとは思っていませんが、基本的なスタンスとしてはこのようなことを考えています。
 大げさなことを言えば、紹介雑誌ではなくて、街の批評雑誌になりたい。そのためには、ある種の緊張関係を保たなければいけません。商売をしている人、住んでる人、街が好きで遊びに来る人、そういう人たちと、緊張関係をつくれるくらいの雑誌にしたいと思っています。
 それから、街の問題について発言するときに、「街の雑誌」というポジションが欲しかったんですよね。例えば、再開発の問題があるというときに、僕が一個人として、それについてどのように考えてるかを発言することは可能です。しかしそれはあくまでも下北沢周辺に住んでいるある大学院生の一意見でしかありません。そういうものを超えるために、「街の雑誌」というポジションが欲しかったんです。
—「ミスアティコ」の読者の反応に手応えを感じますか?
 「今までにもこういう雑誌があってもよかったはずなのに、実はありませんでしたね。」ということを言ってくれる人はいますね。
 この雑誌のセールスポイントは、下北沢でお店を開いている人や何らかの活動を行なっている人に広告を出していただいて、それで支えられているという点です。広告収入で成り立っているのです。
 「ミスアティコ」に広告に載せた場合にどれほどの広告効果があるかどうかは分かりません。僕自身も分からないし、お店の人もたぶん分からない。もちろんこれを見て、お店に行った、来てくれたという人が何人もいるという話は聞くんだけれども、どちらかというと、ここに広告を出してくれている人たちは、お客さんをたくさん呼びたいからということで、広告を出しているというよりは、「街にこういう雑誌が必要だから」とか「こういうような動きをしている人を支えたいから」とかの理由で賛同し、広告を出していただいているという感覚です。
 僕は「ミスアティコ」の言い出しっぺですが、いろいろな人がいろいろな形で参加しているので、どんどんつながりが生まれています。現在は1号あたり5000部を発行して、およそ150から200箇所のお店に置いていただいています。
—「ミスアティコ」は、下北沢駅周辺のお店で手に入りますか?
 はい、もちろんです。「ミスアティコは」発行部数からすると、下北沢の中では一番大きな、下北沢について取り扱うメディアになりました。
—なぜ下北沢の雑誌をつくろうと思ったんですか?木村さんの下北沢に対する思いを聞かせてください。
 究極的には特に「下北沢」でなければいけない、という必然性はありません。
 僕は学部のときに小熊英二先生のゼミにいました。小熊さんは下北沢に住んでいて、1ヶ月に1度くらい、ご自宅でゼミを開講していました。ゼミが終わった後は、みんなで街に出てご飯を食べるのが慣例でした。小熊さんは、モンゴル料理屋やパキスタン人のカレー屋などの不思議なお店に僕たちを連れていってくれました。当時僕は湘南台の遠藤の山奥に住んでいたので、それがものすごく珍しくて、なんて面白い街なんだろうとわくわくしたんですよ。それに道が細くて、入り組んでいるので迷路のようだとも思いました。方向感覚を見失うような路地の魅力にとりつかれてしまったんです。学部を卒業したら絶対このあたりに住みたいなと思っていましたね。けっきょく、学部4年生の中ごろには下北沢に引っ越してしまいましたが……下北沢に惹かれたきっかけは、小熊ゼミでこの街に通っていたということが非常に大きいと思いますね。
 建物の高さが低い下北沢は、空がよく見えて、明るいんですよね。若者が自分の好きなことを商売にしてしまいましたみたいな、小さくて個性的なお店がいっぱいある。それに魅了されて、街の人と話をしてみると、すごく魅力的な人がいっぱいいる。こういう街で勝負をしようとする人はやはり能力もあるし、それぞれの魅力を持っています。下北沢の人たちとの出会いは僕にとって大きかったですね。
—「下北沢」という街を一言で表すと?
 僕は「インディペンデントな人たちが集まっている街」だと思います。インディペンデントな人たちが集まってゆるい連帯感を持っています。何かをやろうというときには、いろいろな能力を持っている人がさっと集まって動ける。でも、普段からつるんでいるわけではない。そういうインディペンデントな感じがあっていいですね。
合意のない再開発は「暴力」だ

—下北沢の再開発の問題で、木村さんが一番問題だと思っている点は?
 問題には2つのレベルがあると思います。
 1つは合意のプロセスの問題です。住民参加が全くできていません。この計画についての周知が全くなされていないんですよ。計画地に土地を持っている人であっても、計画についてよく分かっていない。そういう状態のまま、手続き的に説明会を小さく開いて、「手続き上は問題ないですよ」と、進んでいってしまう。それに「説明会」は意見を言って反映されるという場ではないわけです。そういう手続きの不備というか、不足が明らかにある。
 もう一つは、再開発の順序が間違っているということ。再開発をして街をこういうように変えたいというビジョンがあるのであれば、それに沿ったやり方があるはずです。60年前の道路計画をそのまま復活させて、大きな道路を今の市街地のど真ん中に作る必然性はどこにあるのでしょうか。この街が、戦後、どのように発展し、今、どういうブランド性で成り立っているかということを全く理解していないとしか思えません。これまでの文脈を断ち切って、全く新しい別の街に作り変えようとしているという「暴力」。これは問題だと思いますね。日本のあらゆる街で失敗してきた形の再開発をなぜ、今、ここで、こういう形でやろうとしているのか。
 実は、都市計画業界の中では「下北沢」がある種の魅力的な町として評価されているらしいのです。人が歩くのにちょうどいい路地は一つのモデルケースとして考えられているのです。それを全く違う論理でもって、壊してしまうのが今回の再開発計画です。一部のディベロッパーと、それと共謀しているかのように見える世田谷区の自主的な判断で動いていってしまうことが問題です。
 考えてみてください。今、街で商売をしている人たちがほとんど追い出されてしまうわけですよ。一応、保証金などを与えられて外へ行ってくださいみたいな話になるかもしれないけれども、この街には個人商店がたくさんあります。そういうお店は資本力がないし、そんなに大きな店舗もいらない。小さくこじんまりと個性的なお店をやるということで、みんなが面白がって来ているのに、大きなビルを建てて、仮に今ある小さなお店を入居させたとしても、それは全く違うものになってしまいますよ。第一、大きなビルになれば、家賃が確実に高くなります。けっきょく、小さなお店は出て行かざるを得なくなるでしょうね。こういう例はすでに日本中で起こっていることです。どうしてまた下北沢で起こらなければいけないんでしょうか。
—「Save The 下北沢」や「ミスアティコ」の活動を通して、木村さんの個人的な未来の下北沢に関するビジョンがあれば教えてください。
 すごく皮肉だけれども、この再開発騒動が起こってから、ある意味、下北沢は活性化しているんですね。今まで出会ったことがなかった、話す接点がなかったような人たちが出会って、話をし始めている。そういう動きが出てきているのがすごく面白いと思います。いろいろな業種の人たちが集まっているから、大きな力になっていくといいな。もちろん、このひどい道路計画については見直しをしてもらわないと困る。けれども、それが実現した後も、今回生まれたつながりで人々が議論をして、いい街をつくっていこうという機運が盛り上がるといいなと思っています。
3.駅前のごちゃごちゃを再現する

—11月2日(水)に下北沢で開催されるトーク&ライブイベント「シモキタ解体 -下北沢を揺さぶる再開発の欲望を問う-」について教えてください。
 トークセッションに参加する吉見俊哉さんは社会学の中のカルチュラル・スタディーズの日本における第一人者。蓑原敬さんは日本の都市計画のドンみたいな人で、これまでにたくさんの再開発に関わってきた人ですが、都市をハードとしてではなく、文化の実践される場として捉えている人です。大木雄高さんは下北沢で30年間もバーをやってきた人で、70年代に下北沢にユースカルチャーを根付かせた、この街の文化をずっと先導してきた「大御所」です。仲俣暁生さんは「本とコンピュータ」という雑誌の編集長をされたり、村上春樹論を書いたりと多才な人で下北沢に住んでいます。彼は下北沢の再開発の問題に対して、いちばん早くから気がついて、ホームページなどをつくっていました。僕も彼のホームページを見て、この問題を知ったという経緯があります(編注:http://www.big.or.jp/~solar/shimokitazawa.html)。彼はこの問題を世間に知らせる波及力を持っていたんですね。彼は六本木ヒルズや秋葉原、神保町の再開発をずっと見てきたわけですが、今後はそれが自分の住む街へとやってきたということです。金子賢三さんは「Save the 下北沢」の代表で、下北沢で生まれ育った建築士です。行政案に対する代替案を作ったりと、新しい形の運動を展開してきています。
 5人のバックグラウンドは違いますが、それぞれどういう視点で下北沢を語るのか、彼らのフィールドからこの問題を見ると何が見えるのかを自由に議論してもらう場にしたいと考えています。結論を出す必要はありません。これは、再開発が街に何をもたらすのか、街の何を再び開発するのか、ということについて、アイデアを出し合う、ブレインストーミングみたいなことをやる場にしたいなと思っています。つまり、「もしかしたら、こんな問題があるんじゃないか」というアイデアを出し合う会にね。もちろん、このパネリストたちが中心に話すわけだけれど、フロアからもどんどん発言してほしい。自由な議論の場をつくりたいんです。
 当日のパフォーマーに関して言えば、漫画弁士の東方力丸さんは、下北沢の雰囲気をつくってきた一人だと思います。広田赤ひげさんも、下北沢の駅前の路上で整体をやってきた人です。この人もベースが下北沢ですね、ミュージシャンに関して言えば、出演者全員にとって下北沢は重要な活動拠点です。
 イベントのタイトルは「シモキタ解体」です。これには2つの意味があると僕は考えています。1つは現在下北沢に生活している僕たちのライフスタイルや生活そのものが「解体される」ということ。もう1つは、「再開発を解体しよう」ということ。具体的に言うと「再開発の欲望を解体しよう」ということ。「解体」とは「壊そう」ということではなくて、「クリアに見定めたい」ということです。いろんな人たちを集めて議論をして、再開発の問題では何が起きているのか。どんな欲望によって突き動かされている計画について区分けして、整理して考えよう。そういう2つの意味を込めて、「シモキタ解体」と名付けました。
—パフォーマンスやライブがあるのは、下北沢を感じてもらいたいからですか?
 そうですね。会場となる北沢タウンホールのステージと客席の段差をなくして、フラットな体育館みたいな状態にしようと考えています。パネリストというエライ人たちの話を集まって聞くための会ではなくて、フロアを交えた自由な議論のできる会にしたい。だから、パネリスト、パフォーマー、ミュージシャンを真ん中に座らせて、周りを客が囲むというスタイルがありえますね。イメージとしては、下北沢の南口の駅前のちょっとした広場、勝手に音楽を奏でたり、FM放送局を立ち上げたり、漫画を読んだり、整体をやったり、というごちゃごちゃなものが集まっている状態をタウンホールの中で実現したいなと。当日は、街の中を3時間歩き回って撮影した映像を流します。おそらく、一般的なシンポジウムの上品なイメージとはかけ離れたものになると思います。また、「反対運動」のための集会とも別なものです。いろんな立場の人がいていいし、いろんな人が勝手に来て意見を言えばいい。そういうイベントです。
SFCでは「何でも屋」になればいい
—ところで、SFCでは主に何を?
 小熊ゼミで社会学を勉強していました。授業で何を学んだかという話とは別に、SFCで僕が学んだことは、「やりたいことをストレートにやればいいんだ」ということですね。自分から動けば、ネットワークは自然と広がり、人が集まって、力になってくれる。ただし、自分がやりたいと思うことについては徹底的に追求しなければいけないし、相当コンセプトを練らないといけない。もし面白ければ、たくさんの人が共感してくれる。最初から仲間がいないからという理由で、うじうじする必要はない。やりたいことをやればいいんだと思いますね。職業につながるかどうか、というような話は後からついてくるものであって、学生のうちから心配することじゃないなというのが、僕の実感ですね。
 SFCにはそういう人たちがいっぱいいます。自分がやりたいことを追求することを「井戸を掘る」ことに喩えてみます。井戸を掘りすすめていくと、ある地点で水脈につながるんですよね。そうすると、井戸を掘っている人があちこちにいるから、彼らと連帯することができる。つまり、水脈へたどり着くまでは自分で掘らなければいけない、ということです。こういう考え方は、SFCで時間と環境を与えられて、自由にやらせてもらった中で学んでいったことなのかなと思います。
 あとね、ある人は「SFC生は社会常識がない」と言うかもしれない。けれども、社会常識がないからといって潰されないのがSFCですよね。社会常識は知っておいたほうが何かと便利だし、知っておいたほうがいいよと言うのは正しい。けれども、「社会一般的にみんながやっていないから、それはやらないほうがいい」とはSFCでは言われない。社会常識は自分が何かをやっていきながら学んでいけばいいことであって、そこにとらわれて、自分のやりたいことを曲げていく必要はないと思うんです。
 僕は中途半端に「何でも屋」です。SFCで基礎的な「何でも屋」のスキルを学んだことがよかったと思っています。適当にコンピュータがいじれて、ちょっとプログラムが書けて、WEBサイトが構築できて、ということがそこそこできる。英語でやりとりをしたりすることもそこそこできるし、論文を書いたりすることもそこそこできるし、そこそこに、いろいろなことができる。あと、それぞれの領域にどういうものが広がっているかも大体分かっている。経済学ならこんな感じだとか、こういう分野で誰かがこういうことをやっているといったことが大体分かっているので、何かをやりたいと思ったときに動きやすいんですよね。「何でも屋」かもしれないけど、その「何でも屋」というのはすごく重要なんだなということが分かりましたね。
「下北沢」を発見してほしい
—最後に下北沢に遊びにくるSFC生に一言お願いします。
 「下北沢」っていう街は無いんですよ。行政区域の中に「下北沢」という地名はない。あるのは「北沢」や「代沢」という地名。唯一あるのは、私鉄の「下北沢」という駅名です。だからどこからどこまでが「下北沢」なのかは確定ができない。歩いていて、ここは「下北沢」っぽいな、と感じればそこが「下北沢」になる。「下北沢」というのは、人々の認識の中に存在している街なのです。だから、あなたにとっての「下北沢」と僕にとっての「下北沢」が違うものという可能性がある。だから、「下北沢」は常に括弧に入れられちゃう状態。そこがすごく面白いと思うんですよ。迷って歩いて、あなたの「下北沢」を発見すればいいと思いますよ。迷うのが楽しいんですよ。僕も「下北沢」のだいたいの感じがわかるまでに1年くらいかかりましたから。
 「下北沢」は再開発によって、もしかしたら、別の形で発展する街になるのかもしれませんが、それはこれまでの下北沢の発展の仕方と全くつながっていないものになるということです。渋谷や代官山のようになれば、人は増えるかもしれない。でも、今、下北沢に住んでいるような人たちが行く場所はなくなります。古くて家賃の安いアパートがなくなり、新しくて家賃の高いマンションができます。すると僕みたいな貧乏人は出て行かざるを得ない。それは確実に起こることです。それでいいのかどうか、という問題です。
—ありがとうございました。