「SFCバブル」と今では言われ、実態以上に高まっていた開設当初のSFCへの評価は、97年頃から懐疑へと変化し、2002年頃には絶望視へと変わる。バブルはどのように崩壊したか。引き続きメディアにおけるSFC評を辿りながら見ていこう。

週刊誌のコラージュ

SFCバブルはいかにして崩壊したか

2008年にSFC卒業生に対する調査を行った佐藤真衣さん(05年環卒)は、SFCに対する世評の変化を、3段階に分けて整理している。その区分によれば、もてはやされたSFCの評価に疑問が投げかけられたのは97年前後であり、その疑問は2002年に絶望視へと変わる。この2つの時期にSFCを検証する記事が集中しているためだ。それぞれの段階で、どのような記事が書かれていたのだろうか。調査を進めると、双方の理解不足からSFC卒業生と企業がすれ違う様子が伺えた。また社会にとってSFCが未知なる新設キャンパスであったことや、当時の特殊な社会環境がそれを助長した事情も見えてきた。
メディアの SFCへの評価の変遷
メディアのSFCへの評価の変遷 ※クリックで全体を表示します

1997年- SFC懐疑視期

変化の兆候は96年頃から見られた。日経産業新聞は96年、「慶應SFC卒業生、企業とかみあわず――環境に問題、学生の大企業志向、企業の意識」という見出しの記事で、自由奔放な環境で学んできたSFCの卒業生が、組織の中で協調してゆくことに困難を覚えているという状況を報じている。続く97年、今度は日経新聞が、大手証券会社に入社したSFC出身の女性総合職が集団退社した例などを取り上げ「企業との"不適応"を起こしている例が少なくない」と社会との摩擦に悩むSFC卒業生の姿を描く。この時期はSFCの一期生が卒業・就職してちょうど3年目を迎えるタイミングであり、SFCで育った学生が社会でどのような働きぶりをみせるのかを評価する、最初の時期だといえる。
 難関入試を勝ち抜き、最新鋭の設備が揃う恵まれた環境で学んできたはずの学生が企業に適応できないことには、どのような事情があったのか? 注目を集めたキャンパスだけに、複数のメディアがこのテーマについて独自に検証を行っている。

スキルが災い

『エコノミスト』は97年、「進歩しすぎた学生たちに日本企業は対応できない!? 」という小見出しの記事を書き、「慶應藤沢のようにコンピュータに特化した人材はかわいくないのが、いかにも日本的。カラオケがうますぎたり、腕前シングルのゴルフ部出身を煙たがる心理と同じかもしれない。」とまとめる。 SFC卒業生の実力は認めるものの、「コンピュータをハシや鉛筆のようにあやつる」スキルを持っていることが、新入社員の時期では逆に足かせとなりうると示唆する。
 同じ97年、『週刊朝日』は「新エリート『慶應SFC卒』ブランドの真価を問う」という記事において、新卒入社した会社を早々と退職した卒業生とその一方で勤務を続けるSFC卒業生、SFC教員、企業の人事担当者への取材を行い、SFCと企業双方の視点からこの問題について考察を行う。
 ここでもSFC卒業生にとって、企業が「即戦力になる」と採用する理由のひとつとなったコンピュータのスキルが災いした様子が書かれる。市場調査の担当になったものの、通常業務外で社内ネットワークのインストラクターのような扱いを受け、退社が遅くなっても残業代が認められなかった、学部時代に組織論を専攻したものの、機械メーカーに入社すると社内ネットワークの構築を実質一人で任され、中間管理職への根回しに苦労したといった体験談が、早々と企業を退職したSFC卒業生から語られる。

大学の教育理念と企業の組織風土の衝突

またこの記事では、SFCの教育理念が日本の企業風土と衝突するさまも描かれている。連載初回でも取り上げたが、SFCは「問題発見・解決」を理念に掲げ、学生を「未来からの留学生」と位置づけ、未来で活躍するためにSFCに学びに来ているのだと教育した。記事はSFC卒業生が身につけたこの姿勢が「出る杭は打たれる」という日本企業の風土に馴染まないし、むしろ時代遅れの日本企業の体質に問題がある、というSFC卒業生の主張を取り上げる。順調に勤務を続ける卒業生や、SFC卒業生を歓迎する人事部の声も紹介しつつ「確かに、これは企業側の問題でもある」と指摘する。

企業からの批判に対する、大学側の2つの立場

大学側も企業に「悪いのは学生よりも企業のほうだ」と反論を加える。花田光世総合政策学部教授はこう主張した。

 「多くの企業はSFCに”総論賛成・各論反対”なんです。理念には深く共鳴するが、実際には卒業生を使いきれない。ただ、厳しい経営環境のなかで企業自身が”ぶらさがり社員”は困ると思いはじめている。十年、十五年後には『やっぱりSFCは強かった』と言われてますよ。SFCの教育が間違っていたということは絶対にありません」
当時の報道

ただ大学のスタンスも一枚岩ではない。記事は別の教授の声から、SFCの隔離された環境が学生側の社会への無理解を生んだことも示唆する。

 6年前に東大を退官してSFCに来た石井威望環境情報学部教授も、こう語るのだ。「SFCは隔離された環境だからこそ、実験的な教育が出来た。だが、”ユートピア”なりの弱点もあったと思う。私は学生たちに『東京の刺激を受けろ』と言っている。総合大学なんだから三田の授業も積極的にとったらいい。世間だってSFCに追いつこうとしており、いつまでも最先端ではいられない。閉じこもっていては、やがては追いつかれてしまいます」

もうひとつのSFCバブル 情報技術者としてのニーズ

実はこうしたすれ違いを助長する要因が、当時の社会環境の中にもあった。それが90年代中盤に起こった、電機機械産業界におけるSFCバブルだ。連載初回でSFC生の就職先には業種や職種、会社の規模などに偏りが無いことを指摘したが、こと開設初期の卒業生に関しては電機業界への就職者数の割合が多かったという。その要因が90年代中盤のパソコン・インターネットブームだ。
 90年代初頭、日本の半導体産業はバブル崩壊による需要の低迷により苦しんでいたが、中盤からはウインドウズ95の発売をきっかけとして加速したパソコン・インターネットの普及に助けられ、息を吹き返す。この時期と開設初期のSFC卒業生が社会に出るタイミングが一致した。すべてのSFC生がこうした分野に精通していたわけではないが、SFCの先進的なキャンパス環境から生まれていた「SFCはパソコン・インターネットに強い」というイメージから、 SFC生に対して電機メーカーの期待が集まったのではないかと『未来を創る大学』は分析する。早々に企業を退職した卒業生の中には、こうした世間の誤解に苦しんだ者もあったかもしれない。

新しい教育を受けた学生の最初の就職

今でこそ「総合政策」や「環境情報」といった四文字学部は珍しいものでは無くなったが、SFCは日本におけるこうした大学教育の新潮流を切り拓いたトップバッターであり、企業はその学生の受け入れ経験が無かった。理工学部の就職担当者がSFCに着任し、企業にSFCの教育理念の説明し、就職支援を行ったが、一期生は先輩やOBが誰もいない環境から、通常の学生生活における社会との接点を殆ど持たないままに就職していった。
 学生・企業の双方の無理解に加え、「未来を創る」という教育理念、隔離されたキャンパス環境、「パソコンに強い」というSFC教育の一部の特色が強調され社会に浸透した状況を踏まえると、SFC卒業生と企業との摩擦は避けられないものだったのかもしれない。SFC卒業生の実力は認めつつも、社会人としての適応性に疑問符がつき始めたのがSFC懐疑視期におけるメディアからのSFC評であった。

2002年- SFC絶望視期

メディアにおけるSFCへの懐疑の視線が絶望視へと変わったのが2002年だ。この年『週刊現代』と『サンデー毎日』が、「慶応大学『人気暴落』の衝撃」「一人勝ち慶應の凋落の兆し」という見出しで慶應義塾バッシングの記事を書く。その批評の矛先にはSFCがあった。懐疑視期の企業からの不評の言説を踏まえつつ、人気を牽引してきたSFCの入試偏差値や就職率の低下傾向、卒業生の離職率の高さなどを論点に、慶應義塾の人気に陰りが出てきているとする内容だった。『エコノミスト』も「SFCは大学教育の最先端として成功しているのか」という見出しの記事で、「体系的に学べない」とSFC教育について批評を加えた。

もはやプータロー製造工場だ

メディアによるこうしたSFCバッシングは『週刊現代』(2002年10月21日号)の記事において頂点を迎える。見出しは「慶應SFC『就職率5割をきった! 』」。大学発表の進路データを基に、環境情報学部の01年度卒業生の就職率が5割を切ったことから「もはやプータロー製造工場だ」とSFCをこき下ろす。この記事は当時キャンパスでも噂となり、そのためか翌週の10月29日に大学のCDPオフィス(就職当局)がSFCのサイト上で「就職率が低いのは4年生が進路届けを出さないから」だと反論に乗り出した。SFC CLIPも当時担当者にインタビューを行っている。

2001年度卒業生進路データ

反論の内容は、進路データは卒業生全体を母集団として算出するが、SFCには統計上「その他」に組み込まれてしまう進路届未提出者が多いがために、就職者の割合が卒業生全体からすると低くなるというものだ。また、一般企業への就職以外への様々な分野へ挑戦することは、むしろ好ましいことであるとも主張する。確かに当時の進路届未提出者の割合は3割にのぼり、これでは実際の就職率はわからない。

学部長も反論

相次ぐSFCバッシングに、学部長自ら反論に乗り出したこともあった。『AERA』が05年に行った「面倒見のいい大学」特集において、SFCが「親泣かせの大学、リスキーな将来」「就職率はさえない」と評された。これに対し当時の環境情報学部長であった熊坂教授は公式サイト上の「おかしら日記」という学部長日記のコーナーで、就職者内訳のグラフを基に

 「SFCでは、三田と対照的に、資格試験ではなく、統計的にはニートとまったく同一のカテゴリー(中略)だが、その中に大きなチャンスに挑戦する海外の大学進学予定者が多く含まれている。かれらは、リスキーな将来であることを覚悟して、既存の日本社会の構造を越える世界に羽ばたこうとしているのだ。こうしてデータを詳細に見ると、どこが就職率はさえない、といえるのか」

と反論する。問題の就職率に関しても、

 「SFCの進路未提出者が三田の2学部と比較しても倍多い、というだけのことだ。こんなことで就職率がさえない、と言われるとは情けない。ちゃんと進路届ぐらい、提出して卒業しろよ、と暗い気分になる」

と悔しさを滲ませる。いずれにしろこの時期のSFCには詳細な進路データが存在せず、「3割が転職」と言われた離職率についても連載初回で取り上げた小論文の「顕著に高くない」とする調査だけ。世間のSFCバッシングを検証する素地は整っていなかった。こうした経緯でSFCのバブルは崩壊し、もはや凋落したとする視点が、メディアにおいてその後も尾を引き続けるのである。

SFC生の特殊な気質

一連の批判からわかる確かなことは、進路届を提出しないルーズな気質が一部のSFC生にあったことで、『週刊現代』もその点について「届出用紙を書くのが面倒臭いのなら、就職して会社に行くことなどは、もっともっと面倒臭いことに違いない」と皮肉っている。当時を知る卒業生も「確かに当時のSFCには変なエリート意識のようなものがあった」と語る。隔離された自由な環境で育まれるSFCならではの特殊な気質が、良くも悪くも卒業後の社会生活に影響したことは確かだろう。社会に出ると、問われるのはどこまでも本人の人格と能力である。SFC生は在学中に特殊な気質が育まれることを自覚した上で、就職活動や職業生活に取り組んだほうがいいのかもしれない。

バブル崩壊後

絶望視期を経て、世間のSFCを眺める視線は「平時」へと移行する。SFCのキャンパス単体を取り上げて批評を加える記事は、現在では見られない。取り上げられるとすれば、慶應義塾についての特集が行われる中で、「SFCの失速どこ吹く風ビジネススクールで存在感示す」(『フィナンシャル ジャパン』09)と、SFCにもはやかつての勢いが無いことへ言及がある程度だ。

週刊東洋経済「30歳の逆襲」

SFCがメディアに取り上げられることが無くなっても、卒業生がメディアに顔を見せることは多い。昨年、SFC卒業生のtwitter上で、『東洋経済』の「30歳の逆襲」特集が話題になった。「日本人の新しい働き方 活躍するアラサーたち」という見出しで紹介された、活躍する30歳前後の6名の人物中、4名がSFC出身者だったためだ。彼らは「SFC出身」という目線を受けることなく、個人としての活躍を評価されている。SFCは開設から20年を経て、一括りに「パソコンに強い」「すぐ辞める」というイメージを持たれることが無くなり、慶應義塾の一(田舎)キャンパスとして定着したということかもしれない。
 次回は08年の塾内就職実績や他大学の就職実績を取り上げ、SFC生の就職先の特徴を考える。
文責:特集主幹平野(07総卒)