すっかり秋も深まり、肌寒くなってきた10月中旬。僕が大学にはいってから、半年がすぎようとしています。この半年で数多くの人と出会い、多くの経験をしてきました。一癖も二癖もあるような人と話したり、逆に取るに足らない人と話したり…。

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今回は、僕が大学に来て感じたことの中からひとつ。「実践すること」について書いていこうと思います。

夢物語ばかり語る人はなにもできやしない

SFCに来て、一年生が「僕はこんなことがやりたい!」「〜みたいなことができたらいいなあ!」という夢物語を言っているのをよく聞くようになりました。しかして、その半分以上はまさに夢物語であり、ただ己の理想を声高に叫んでいるにすぎないものであると感じます。「で、あなたはなにをしたんですか?」と問うて、確固たる答えを期待するのは無駄というもの。
 あらゆるメディア(SFCの場合、その多くはネット由来)から拾ってきた断片情報を、まさに自分が目指すべき理想であるかのごとく仕立てあげ、くだを巻く人だらけのような気がしています。
 そうした人の多くは「〜がしたい」と言うものの、自ら行動することは少なく、「〜したい」と言っている自分に酔っている節があるのではないでしょうか。いまのままの自分では不足であることをどこかで感じつつ、やりたいことがさして見当たらない状況に焦りを感じ、とりあえず周囲に同化するために「目標」を仕立てあげる。
 つまり一年生には、確固たる自信、揺るぎない自分を持っていない人が多い。
 こういう人は、断片情報を表層の知識として自らに貼り付け、「とりあえずの自分」というものを構成することで、できない自分ってやつを封じ込めているのでは、と感じます。
 大学に四年通ったとして、問われるのは「なにをやったか」という事実。なにももたないまま四年次を迎えないようにしたいものです。

まずやってみませんか

「理論」と「実践」は絡み合っていくもの、双方向的なものであるゆえに、知識を得ることはもちろん重要です。ただ、知識を得るだけで自己満足に浸っていては、結局なにものにもなれず、さらに自己喪失の深みにはまっていくだけではないでしょうか。
 知識を得るとは、いわば目的地に向かう道を地図を見て知るということにすぎない。道を覚えるには、実際に歩いて体得しなければならないのです。つまり、「実践すること」によって、「プロセスを明確化」しなければ夢物語はいつまでも夢のまま。
 「自分のやりたいこと」なんてものは、やってみてから考えればよいのです。自己は「たまねぎ」のようなもので、他者、環境との関係性によって相対的に構築される幾多の表層が重なっているにすぎないのだから、「本当に自分がやりたいこと」を考えるのはまさに無駄というものです。
 SFCに来て、「なにかやりたい!」と思うのならば、それを口にする必要はありません。せっかくなら「これをやりました!」でいきませんか?