▼スリランカでのNGO活動から、地方政治の舞台へ
 第3回では、「スリランカ住民自立のための職業訓練指導及び職業訓練学校の設立と運営」で評価され2001年度塾長奨励賞を受賞した、佐藤知一さん(総 3)にお話を伺った。高校卒業後、ニュージーランドで少林寺拳法の指導員、板前さんとして10年間を過ごし、前回の厚木市議会議員選挙に出馬するも僅差で落選、政策を学ぶため30歳でSFCへ入学し、現在議員を目指して活動中の佐藤さんの半生に迫った。

佐藤知一

▼ 在日留学生とのネットワーク
―― まず、スリランカのNGO活動を始めるまでに至るまでの道のりをお聞かせ下さい。
 調理師になりたかったのですが、すぐに調理師になるのはいやだったので、ニュージーランドに行きました。高校の先生の紹介で、日大のOBでニュージーランドで少林寺拳法を教えている人のところで少林寺拳法指導員として1年半過ごし、アジア各国を旅行して帰国し、2年間修行をしてから厚木の実家に帰り、実家の料理屋で板前になりました。
 調理師の仕事をし始めてから、英語翻訳のボランティアはやっていたのだけど英語を話したいなと思い、留学生との接点を持とうと大学を調べました。近くの大学では、東海大学・産能大学・神奈川大学に留学生がいる。その中でも一番大きいのは東海大学でした。大学側に聞いてみたら、「留学生会というのがあるからそこの会長さんにアクセスしてくれと」言われ、そこにアクセスして金柄道(キムピョンド)さんという韓国人に出会いました。よく聞いたら、東海大学も他の大学も、7割以上が韓国・台湾・中国で占めているんですよ。まあ、英語をしゃべるというのはほとんどなかったのですが、彼らと話すうちに意気投合しまして。
▼ 「かわいそうな人」ではなくアクションを起こす人として
 僕も30歳でSFCに入ってきたのですが、彼らも同じように30代くらいで大学に入ってきていて、立派な大人なわけですよね。ただパーティなどに誘われて行くと、「韓国から来ているの?どこどこから来ているの?ああかわいそうね、いっぱい食べて」と言われる。要するに下に見られるんです。彼らとしては、自分でバイトをして、自分で学費を払って大学に通っている一人前だから、そういうふうに見られるのが好きではない。
 そこで、留学生会の活動として、日本にいる留学生で海外にいる人たちのために、アクションをしようか、ということで立ち上げたのが今の国際交流ボランティア協会です。もともと知り合いがやっていた「国際交流ボランティア協会」の厚木支部という形で始め、厚木支部の活動が大きくなったので、独立しました。
 留学生はアジアが多いので、フィリピンやインドに物資を送りたかったのですが、受け入れ体制が十分でなかったので、アフリカに行きました。アフリカというのは、国の方で婦人子ども家族省という省庁がある。そういう省庁を通すと、意外と簡単に物資を送ることができるのです。当時の活動としては、そこに物資を送る活動をきっかけとして留学生と地元でのパーティ、留学生が行なう海外支援を日本立てで行なっていたわけです。その頃は調理師の仕事を10時ごろまでやって、夜に留学生のアパートへ行って飲んで、という生活でした。
▼ スリランカ人からの突然の電話
 ただ、時間がたつにつれて次第に活動がマンネリ化してきて、他でも留学生とのパーティをやる団体がだんだん増えてきましたから、自分達がやる必要も薄れて来ました。さらにその頃留学生も卒業していき、留学生会としての活動はだんだん小さくなっていきました。一方、僕自身の活動としては、自分の電話番号と名前とが飛び交うようになって、全然関係ない留学生から相談の電話がかかってくるようになりました。
 例えば、群馬県で不法就労しているバングラディッシュ人から「兄が殺されてしまったが、会社の社長が兄の分のお給料をくれない」と僕に相談して来たりしたこともありました。その時は、僕は動けないので、現地の知り合いを紹介しましたね。あとは歌舞伎町の方で偽装結婚しているお姉さんの相談に乗ったりなんていうのもありました。スリランカでのNGO活動を始めたのも、このような突然の電話がきっかけだったんです。
 ある日突然、キスリーラストプリアというスリランカ人が、僕の所に電話をかけてきたのです。「僕は全然佐藤さんのことを知らないけど、噂をよく聞いている。僕はスリランカから来ていて、友人の国会議員が大統領特命でで日本に来る。彼が折角だから、留学生の我々スリランカ人がお世話になっているNGOの人に会いたいと言っているんだけど、僕は佐藤さんしか知っている人がいない。とにかく会ってくれないか?」という話を受けました。
 キスリーラストプリアさんは、ほとんど知らない人だったし、「会ってくれと言われてもなぁ」とは思ったけれど、当時仕事があったので10時以降ならいいですよ、ということで会いました。それで話したら意気投合してしまって、96年10月に彼の友人の国会議員のに2、3日ほどつきあうことになりました。それで、ずっと一緒にいるうちに気に入られたんですよ。その年の12月の末に彼から「国に招待するから来い」と言われて。そんなに言うならということで、現地に行きました。
▼ スリランカでのNGO活動へ
 インド4カ国と言われているのが、インド、パキスタン、バングラディッシュ、スリランカです。中でもスリランカは、そこで取れる紅茶・宝石類を売ることで外貨が定期的に入ってくる為、とても良い国なんです。人口は1700万人で、ちょうど台湾よりも広い土地に、少なめの人が住んでいる。識字率も高いです。
 ただ、テロがあったから、あまり外国の人が来ず、特に日本の人なんか全然来ない。仏教関係の人は来ますけどね。だから、僕なんかが行っても、色々なえらい人が会ってくれました。特に僕を招待してくれた国会議員の彼というのが、スリランカでは若手ホープで、日本でいうと自民党の幹部クラスのような人だったのが良かったんですね。そうはいっても、仮にテロがなかったら日本企業がたくさん来るので、僕なんかが入り込む隙間はなかったと思います。
 そうやって現地を回ったのが、スリランカでNGO活動を始めるきっかけでした。
――スリランカで職業訓練校を設立された、ということですが具体的には?
 マトガマという田舎で、職業訓練学校を開きました。学校といってもとても小さいところですけどね。そこでは、洋服の裁縫・ミシンの修行と、あとは英語を教えています。スリランカというのは、比較的英語をよく話せる国だと言われるのですけど、まだ十分ではありません。田舎の人が都会に出稼ぎに行くときに、英語が話せるかどうかがとても重要なんですよ。ですから、基礎英語を教えて町に出稼ぎに出やすいようにする。それを職業訓練学校でメインでやっていて、その他にも、会社に就職する際に必要な招待状を書いて欲しいという時に、招待状を書いてあげたりしています。
 さらに職業訓練学校の隣に日曜学校をやっている寺子屋があって、普通はスポンサーがつくんですが、田舎だからスポンサーがついていませんでした。それなら私達の方でサポートしましょう、ということで小学生はそこで教えています。
▼住民の自立的な運営へ
――今は100%現地で自立して運営しているそうですが、そこまでこぎつけるのは大変だったのでは?
 最初はロータリー財団などから援助して頂いたり、学校の近くにある大きなミシン工場からお金を出してもらっていて、それらを運営資金にしていました。スリランカでは、洋服を作って海外に輸出するのが盛んで、そのミシン工場でもそれをやっています。私たちが職業訓練をした人材を工場に派遣する代わりに資金援助を受けています。それに加えて、郵政省のボランティア貯金で年間200万や300万を合わせれば、十分な活動資金になりました。
 しかし、だんだん現地住民が私たちにお金を頼ってくるようになりました。いつまでも日本からお金が入るから、だんだん自分たちで収入を得ようとしなくなったのです。それでは、いつまでたっても自立できません。また、僕も個人的な事情で次第に関与もできなくなってきました。
 すると去年の4月、彼らの方から街にいい場所があるから、そこでコンピュータと溶接を教える教室を作り、そこでの収入を運営資金として自立して運営しようと提案してきました。それが去年実現して、一息ついたというところです。今は日本からの資金援助は全くなく、自立して運営しています。
 実は、学校を建てるだけなら、簡単なんですよ。日本の政府やロータリー財団とかに呼びかけると寄付が集まります。ある程度の基礎的なお金を積んで企画を出すと、郵政省から必要な資金の6、7割分の補助金がもらえるんです。
 ただ、例えばタイの方の山奥とかに行くと、きれいな学校が村の物置になっているというケースがある。継続的に先生を雇って来てもらうにはお金もかかりますし、そこまでやるのは難しい。タイには日本の人が入って、NGO活動を一生懸命やっています。でも、彼らに子どもができると、子どもの教育のことを考えてバンコクに戻るか日本に戻るか、の選択を迫られるんです。そうやって活動から抜けてしまう。そういうケースの場合は、大抵は彼らがいるから、そこの活動がうまくいっていることが多いのです。例えば、刺繍作って日本に売る、という時に100円ショップでも売れないようなものをひとつ300円とかで買ってくれるボランティアがいる。市場価値に合わないかたちでやりとりをしているんです。しかし、日本人が引いてしまうと、住民の彼らだけでは売ることができない。そうなると、活動自体がつぶれていってしまう。
 それではダメなんですよね。
 僕らの活動も本当に小さな活動なんですが、最終的には現地住民に自立してもらうことができました。活動を始めた当初から、僕らが引いても彼らが自立的に自分達で人材を育成していくような形をとらないといけないな、とずっと思っていて、それが去年出来たので安心しています。
―― 一連のNGO活動の中で、一番苦労された点は?
 意思の疎通ですね。現地の人に説明しても分かってらえないことが結構あるんです。考え方の違いとか。例えば、スリランカはずっとイギリス領で、もちろん仏教の国だから、お金持ちがお金のない人に恵むのは当たり前だ、という「持てる者が与える」という考え方がある。それはそれでよい文化だと思うのですが、例えば動物園の入場料が、僕達外国人は一般の人達の100倍するのです。もちろん100倍とは言っても10円のところを1000円で、といレベルではありますが。それを続けていくと競争力が上がっていかないので、自分達のためにならないよ、といくら説明しても理解されないんですよ。お前らは僕らの何十倍も給料をもらってるのだから当たり前だ、という返答をされてしまいます。
 そういう困難もありますが、今では何とか現地の方に自立して頂けたので、ほっとしていますね。
▼地方から日本を変える
――板前さんが厚木市議会議員選挙に出馬するのはユニークですが、出馬理由は?
 調理師の仕事をしながら、留学生や不法就労している外国人の世話をしていました。また、小さい頃から職人さんなど色々な人が住んでいる中で生まれ育って、そこに知的障害を持ったおばさんがいて、僕は彼女にオムツを換えてもらって育てられました。このような経験から、福祉の点などで地方政策が十分でないことを実感し、立候補しました。
――今後の2年間でやりたいことは?
 来年に予定されている地方選挙に出馬する準備をしています。学生議員として、学 生をしながら、議員活動をできたらいいなと考えています。
――地方自治のビジョンをお聞かせください。
 地方議員は政策を十分にできる環境にありません。知識だけじゃなくて、研究活動費も十分ではない。だったら、優秀な学生をもっと活かせばいいんじゃないか、と思うのです。塾内には、院生を含めて優秀な学生が沢山います。片岡研究会、八木研究会、竹中研究会、塾弁論部などの塾生と共に政策を練り上げて、議会に提出したいです。
 例えば、街づくり政策なら、片岡先生とゼミ生とで作り上げ、条例なら、内閣法制局OBの八木欣之介先生とゼミ生、財政なら、現在、竹中先生は当然無理ですが、竹中チルドレンとよばれる経済に詳しい学生やOBのエコノミスト達も相談に乗ってくれるでしょう。SFCの学生が、中心になって政策を直接議会に提出するんです。
 実際に理工・情報系やベンチャーの分野では、産学共同は、当たり前なのに政治の世界では、全く進んでいない。だから、私は優秀な学生をここに引き込んで、一緒に政策を作っていけるという前例を作って、他の地方議員にも伝播し、広まれば良いと本気で考えています。
 唯一、中津市という福澤先生の生まれたところでは、毎年職員でやる気のある人を一人だけSFCに連れてきて、研究会で一緒に活動をしています。すると、考え方が柔らかくなって帰って行く。自治体では、産学官共同がないんです。でも、自治体でもやるべきではないでしょうか。
 石原東京都知事は、東京から日本を変えると言い、中田横浜市長は、横浜から日本を変えると言いました。
 この4月で情報公開法が施行され一年が経ちました。しかし、実は国が、法律を作る17年も前に山形県にある金山町という小さな自治体が、情報公開条例と言う条例をつくり、それが川崎市、神奈川県と広がり、国が施行した時には、既に全ての都道府県と全ての政令指定都市、半分以上の市で、条例が施行されていたんです。
 地方から日本を変えるということには可能性があると思っています。
▼恒例の質問
――気になるSFC生は?
 家本賢太郎くんですね。SFCに入るかなり前に彼とメールのやり取りをしたことがあるんです。彼が障害を持ちながら、会社を興してるのを知っていて、彼が車椅子の時に一度会いに行ったりしました。それで忘れた頃に、彼がSFC入学した事を知って、メールしてこないだ会いました。彼はスゴイなと思いますよ。他にもSFC生はいい奴がいっぱいいますよ。
――SFC生へ一言
 SFC生は、あまり文句を言わないですよね。言うようで、実際そうでもないと僕は思いますね。先生がフェアでないことをした時に、フェアじゃないとはっきり言わない。フェアでないことにはしっかり言うようにする方がいいと思う。例えば、学事の事で不満があっても、実際に学事へメールの一つ書かない。
 ただSFCでよかったと思うのが、ゼミや弁論部で、一緒になって、議論をしたり熱く語る貴重な経験を持てたことです。僕は12才も年上なのに、「佐藤さんそこは認識が違うよ」と言ってくれる。そういうときは悔しいけど、いい関係だと思いますね。
 学生にはパパと呼ばれています。実際は独身なんですが。で、「パパは人生を2度得しているね」と言われたんです。高校卒業後ニュージーランド行ったり好き勝手にして、また30歳になってSFCに入って、人生2度楽しんでるよ、と。金銭的にはきついですが、とても楽しいです。
【編集部から】
 経歴やホームページを見て、とてもアグレッシブな人だと想像していた佐藤さんだが、実際はとても温和な人という印象を受けた。慶應義塾弁論部の合宿にて取材を行なったのだが、弁論部の学生達と仲良く話す姿は文字通り年齢差を感じさせない。創立128年目を迎える弁論部。その全卒業生の中でも、ユニークな弁論部員だろう。来年の地方選挙での健闘を応援したい。
【佐藤知一】プロフィール

佐藤知一

1970 年厚木市生まれ。高校卒業後、ニュージーランドへ渡航し、少林寺拳法指導員として1年半過ごし、調理師 (板前さん)となり10年間を過ごす。厚木市議会議員選挙に出馬、2000年総合政策学部入学。2000年度SFCAWARD受賞、スリランカにおける NGO活動(学校設立、運営)で2001年度塾長奨励賞受賞。
趣味:海外旅行
尊敬する人:本田宗一郎
サークル:弁論部
SFCでの出没場所:弁論部部室、竹中研究室
性格:ノーコメントで(笑)