先日、一時帰国した際に、しばらく会っていなかった友人に、“なんだか目がおかしい。顔が違っている。”という指摘をされて、少し動揺しながらまじまじと鏡を見てみたのだけども、べつにおかしい、というほど、どうかしているようにも見えない。まあ、太った、痩せた、青白い、黒ずんでる等、皆好きなことを言うので、多分その日のノリかなんかで言ってるのだと思う。何事にも確信を持ってものを言うことがなんだか年々難しくなっていくような気がするのだけども、NYに来て自覚できるほどの変化があったとすれば、どうもよく皮膚の皮がむける、ということくらい。空気が乾燥している、というのは本当だった。


 明日の予定をにらみつつ、今日、目の前にあるずんどこ山盛りの課題をめりめりこなして身をすり減らしているうちに、12ヶ月があっという間に過ぎようとしている。こういった、半年、一年などの節目というのは意外と大事なもので、あまり大きな、たとえば10日を越えるようなパースペクティヴで物事を見ることができない僕には、改めてはっとしてみたり、しんみりするような機会であり、またこの先の日々の行く末にか細い導線をちりちりいわせて、なんとなく首を伸ばして先をすかし見るような瞬間である。
 というような、感慨にふけっていると、“未来からの留学生の今”という、なんだか途方に暮れてしまうお題で剣持君からの原稿依頼が。わりと、夜更けの台所で暗闇の中、立ち食いでカップラーメンかなんかを啜っているのをトイレに起きた親に発見されて、必要以上にあれこれ説明してしまうような、そんな気まずさもあるのだけれど。ひとつ頑張ってみます。
と、皆さん、意外とここまでが前説なんですが、ついて来てるでしょうか。

Dreadful, yet Glorious Days

SFCという場所には、僕はかなり複雑な思いを抱いていて、素直に“未来からの留学生は今、ほらこんなに輝いている!”というような文章を書くことが難しい。半ば呪っていたような時期すらある。まあ、今思えば、「SFC」という場所やなにか特定の集団が孤立してあるわけではないので、それなりに思い入れがあったのだな、という気もするのだけれど。
 まずロケーションが悪い。他に行くところがない。授業後になんとなく集まるのが、メディアセンター、というのは救いがたい。よくSFCの名物として、“ 残留”を誇らしげに語る人たちがいたけれど、これはあきらかに常軌を逸しているというか、正気とは思えない。一度、深夜に特別教室で作業中、ワークステーションの下で寝袋にくるまって寝ている女の子を発見して、叱りとばしたくなった事がある。女子大生はあんな所で寝てはいけないし、そんな事に意味を見いだす必要は全くない。大体、自分の部屋以外でまともに物を考えて、本を読んで、物を書くことなど、僕にはできない。
 それから、当時のITブームに乗って学校全体を包んでいた、ある種強烈に前向きなムードに、違和感を持っていた。キーワードやスローガンが頻出する講義や友人の会話を、なんとなく気恥ずかしく思っていたのは事実である。そうは言っても、鴨池のほとりで一人タバコをふかしては世を憂いているのも楽しくないので、外の世界とのつながりを意識的に保っていたように思う。まあ、そういうことを青筋立てて本気で考えていたわけでは決してないけれど。
 僕はとてもまじめなので、学業が充実してないと、わりと行き詰まってしまう所があるのだけど、その意味では3年次からゼミに入ってようやく、軸が定まったような記憶がある。ゼミは二つ掛け持ちして、田中茂範さんの認知言語学ゼミ、それと福田和也さんの小説ゼミに所属した。具体的にゼミで学んだ内容がどう糧になったか、ということは定かではないけれど、一つ言えるのは、田中さんや福田さんといった、自前の脳みそ一つで一級の仕事をしている人の姿を目にすることができたのは、とてもありがたいことだった。スローガンや目新しい概念の一人歩きが殊さら目につくSFCで、この御両仁のどっしりとした、後まで反芻のできるような言葉に触れられたこと、これはきっと大事なことだった。大学、というインテレクチャルの集まる場で、徹底的に自分の限界を思い知らされること、それを認めるのは恥ずかしいからあれこれあがいてみること、そういうことができるのが大学生の醍醐味だと思う。そうした中でいささか変わった、けれど愛すべき友人たちに出会えたのも、ありがたいことだった。
 うちの両親というのは、やっぱりちょっとおかしくて、卒業をひかえ、就職でもするか、とあれこれ準備している僕に、“あんたね、続かないからやめなさい ”といって、海外に出ることを賛成してくれた。こんな所でアナウンスしても仕方がないけれど、うちの父は中卒である。高校には行かず、参勤交代の工場勤め、タクシーの運転手、トラックの運ちゃん、法律事務所見習いなどを経て、コンサルティング会社を設立するに至った。もう引退かと思われたけれど、57歳にして、今度は光ファイバーのコネクタを開発するベンチャーを起こして、全国を飛び回っている。理科大で有機化学の学位を取った母と一体どう結ばれたのかは未だに不明だけれど、教育には無条件で金を出す、と直線的に決意していて、なにはともあれ、このスネなら囓りたいだけ囓れ、と自ら毛ずねを差し出してくる。それはそれで何というか、アレなわけだけども。
 本当にもう、他の執筆者の方々の、こう、SFC的にはゴール・オリエンテッドな進路というか、晴れがましい未来予想図というものは皆無なまま、今在籍する大学院にすべり込んでしまった。

現在

NYというのは、ほんとにおかしな街で、はたから見るとあれこれ文句も多くて、たとえば24時間騒々しいし、街は汚いし、家賃や生活費は高いし、マクドナルドの店員は毎回必ずケチャップを入れ忘れるし、強烈におかしな人もいっぱいいるし、ろくなことがないのだけれど、一度住んでしまうと離れがたくなってしまう所がある。
 なんといっても見るべきもの、やるべきこと、会うべき人がそこら中にあって、誰も他人のことなんか気にかけちゃいないので、好きなことを好きなようにしていればよいのである。モノも人も情報も、すごいものもどうしようもないものも含めて、めちゃくちゃになってそこらに溢れかえってる中を一人スイスイ泳いでいくのは本当に快感なのだけど、それには準備も必要で、自分にとって有益なもの、必要なもの、正しいもの、を見分ける括弧たる基準を身につけることであり、それをきちんと相手に伝えられる言葉を持つことだと思う。待ちの姿勢では誰も何もしてくれないし、とてもつまらない。英語も喋れなくてふらふらしているのに、やたらと人生を確実に愉快なものにしている人も多いけど、もみくちゃにされて疲労困憊して、なんだか仕方なく生きている人もとても多い。この一年で見たことも聞いたこともないものにたくさん出会ったし、これからもそういったものに出会えるという期待でうずうずしてくる。
 こうして書くと、まるで親の金で遊び暮らす放蕩息子のように聞こえるかもしれないけれど、実際、僕のアカデミックな生活も同じ路線の上にある。僕は今 Instructional Technology and Mediaというプログラムの修士課程にいて、日本語でいうと教育工学、という分野の勉強をしているのだけれど、もう、楽しくて仕方がない。悪名高いアメリカの大学の厳しさというのはもちろん事実で、この文章を書いている現在、期末期間真っ直中で、僕はかれこれ36時間一睡もしていない。それが苦にならないのは、やりたいことをやりたいようにさせてくれる環境があるからだろう。教育工学といっても、まだ新しい分野であるし、漠然としすぎてコアの定まらない領域であるが、僕は田中ゼミ時代の認知言語学の知識を下敷きにして、“学習課程における、認知科学理論とテクノロジーの応用”をテーマにいくつかのプロジェクトに参加している。大仰に聞こえるけれど、なんてことはなくて、人が何かを学ぶとき(学校や教育現場に限らず)、何が必要とされるのかを理論的に整理して、実際にそれを実現できるプログラムのデザインをする、というものである。よって、幼児の遊ぶ玩具を作ってみたり、耳の聞こえない移民の子供にどうやって英語の概念を教えるのか、パソコンの電源も入れられない老人が自分のウェブを公開するには何が必要か、街をゆく人が歩きながら読んで理解できるニュース広告の打ち方、など本当に個々のケースに合わせての作業になる。
 そこで本当に重要なのは、ごりごりの理論でもオールマイティなテクノロジーでもなくて、現場にいる人たちがいかにしてそれを利用できるかをリアルに描ける想像力と、学習体験をより刺激的なものにできるウィットのきいたアイデアである。
 僕が今リーダーをしているプロジェクトでは、遠隔学習(俗にE-Learningと呼ばれるもの)のつまらなさに絶望したメンバーが集まって、ゲーム理論をベースにした、SPACEというプログラムを開発中である。具体的には、オンライン学習において、未だに現実のクラスルームで要求されるある種のルールやふるまいが継続されていることを問題点として、”Private” と“Public”という概念の垣根を取っ払う空間のデザインを模索中である。僕は主に、インターフェース・デザインを担当している。はっきりいって、僕はテクノロジーにはまるで疎い。意外と多分、小森おばちゃまの次くらいに疎い。なので、実際の作業は、プログラマーやCS専攻の人たちの作業になるけど、全ては想像力をフルに活かしたアイデアを生み出すことにあって、何時間ものブレインストーミングを英語でするのは、しんどいけれど、やりがいのあることだ。それぞれ才能のあるメンバーに恵まれて、6月にはハワイでの国際学会でプレゼンテーションを行えるまでになっている。最近、なんだか自分の守備範囲を越えた展開になってきて、ちょっと当惑気味なんだけども、別に焦ってもアレだし、それはもう定め、ということで。
 

それから

この文章にすらそれは現れてしまっているけど、僕は本当に行き当たりばったりでどうしようもない。今、その瞬間に思いついたこと、目に付く物にかかりきりになって、後先をきちんと見通す能力に欠けている。それでも、常に楽しいこと、夢中になれるものを見つけてこれたのだから、それはそれである種の才能なのだと、自ら言い聞かせて、収支は付いていることになっている。
 なので、僕の経歴をここで書いたところで何一つ皆さんのためになることはないのではないか、と恐れ、最後にきれいにまとめたいと思っても、気の利いた言葉が見つからない。というか、そういうアレですよね、このコラム。確か。
 それでも一つだけ言えるとしたら、皆さん、家族には心から感謝しましょう、という間抜けな標語のようなものしかない。僕は毎日両親に感謝して東の方角に敬礼してるけどね。
≪プロフィール≫
小島 大(こじま・だい)
01年度 環境情報学部卒業
 福田和也ゼミ、田中茂範ゼミ、W&IS, KOE所属。
02年 9月より Columbia University, Program in Instructional Technology and Media修士課程在籍中。