「自分が」語るということ

私は、ぜったい教師は無理、と思っていた。というより、考えたこともなかった。部活や学生生活は楽しかったけど、授業を受けるのが好きじゃなかったからだ(今もそうだけど)。
 今年4月、自分の授業を受講しにきた学生100人を前にして、呆然とした気分になった。某大学で非常勤として「情報行動論」という授業を受け持つことになったのだけど、専門の授業を持つのは今回がはじめての経験だった。
  SFC(「藤沢」といったほうが僕には慣れているんで、SFCという言葉を使うのは抵抗があるんだけど)に、通っていたときは體育會弓術部に入っていて、練習場のある日吉に下宿していたから、まじめに授業には行っていなかった。練習と、試合と、友人と飲み会で、大学四年間は終わった。就職活動を終えて、自分の進む道に迷いを感じて、というより、就職活動した後、みんなから数年遅れて向学心が出てきてしまった。私は、今、普段は博士課程の大学院生でしかない。環境問題や自然災害の報道や情報伝達の研究をしている。大学院に進学してからは、とにかく「モノを調べる」「調査をする」「研究する」「文章を書く」ことが面白くなり、とにかく突っ走ってきた。それがいつの頃か、自分のあこがれていた「研究者」なんだと思っていた。
 周りの友人が、結婚したり、子どもができたり、車を買ったり、マンション買うのをみて、うらやましいなあ、と思いつつも、これが自分の生きる道と妙に納得してた。けど、大学院も修了が近くなって年齢を重ねてくれば、当然「就職」が迫ってくる。非常勤をしないと、そして就職しないと、研究を続けられない。
 困った。とにかく困った。大学のとき、授業をまともに受けておけばよかったとすごく後悔した。講義を真面目に受けたのなんて、大学1、2年の頃だけだったから、どう授業をすればいいのか、さっぱり分からない。しかも「教科書」がないのである。よく考えてみれば、確かに、SFCでの授業は「教科書」通りの授業というのは少なかった(かな?)。さまざまな先生が、自分の専門のことをうまくコーディネートして、授業を組み立てていた(ような気がする)。けど、それが、こんなに大変なものだとは、自分でやってみるまで思わなかった。まだ、研究をはじめて数年の私には、オリジナルなことを話すというのが結構しんどいのだ(その授業を持った学科は、情報・メディア・コミュニケーションなどを中心としているところだったので、他の先生と授業内容がカブるので、いわゆる教科書がつかえない)。
 自分達の生活に関わるネタを用意するようにしないと、興味を持ってくれない。ひとつの事柄を説明するにも、誰が言っていることなのか、何年に起こった事か、難しくなりすぎないように、また簡単になりすぎないように説明しなくてはいけない。
 不思議と慣れてくると、生徒の顔をみると、一人一人が話したことを理解しているか、理解していないのかがよくわかる。反応を見ながら進める。専門的すぎたり、繰り返しすぎると、生徒は寝る、隣の人とはなしをはじめてしまう。その微妙なバランスが難しく、悩ましい。「そういうのは無視して、とにかく『講義』をすればいいんだよ」とアドバイスを受けてもなんとなく、それはできなかった。
 前々日あたりから徹夜で準備して(そこまで何もしていない自分が悪いのだけど)、配布プリントを印刷するために早めに学校に行って、緊張して教室に入って、授業して、もう終わった後はへとへと。タバコの本数も、この数ヶ月は異様に増えた。
 教科書がないということは、授業内容も、そのボリュームも、流れも、全て自分で考えなくちゃいけない。それも90分でちょうどおさまるように。まだ非常勤の身分だから、手を抜いたり、話す内容がなくなったから30分くらいはやめに切り上げよう、というわけにもいかない(そこまでは慣れてない)。雑談をして時間をかせごうとしても、うまく雑談できる内容もない。それだけ人間として経験が浅いということなのかもしれない。逆に、少し話しが長くなって、学生の入れ替えに手間取って、次の授業をする先生に怒られたこともある。
 大学の授業だから、全員が出席してくるわけではないので、どのくらいの理解度の人に合わせるのかも難しい。テストも、授業にまじめに出てきた人がいい成績をとれるようにと、授業内容からまんべんなく出したら、量が多すぎて、苦情がきた。
 一回、レポートを出した。そして、よせばいいのに「添削」することにしてしまった。2週間くらい、毎日添削ばかりしていた。人の論文を読んで、評価することは、正直辛かった。自分も、まだうまく論文をかけないし、普段は評価される立場なのに相手を「評価」しなくてはいけない。しっかりしたレポートがあっても、WWWからコピーしたものだったり、他人と同じものだったり。たしかに、私も大学のとき似たようなことをしていたような気もする。
 けど、こんなに、頭にくるものだとは思わなかった。そういえば、中学、高校、大学と、授業中寝ることなんてあたりまえだったけど、立場が変われば違うのだ。授業中に寝られるのも、いい加減なレポートもすごく「むかつく」んだな、これが。
 スーツという戦闘服も「記号」として大事なんだな、とわかった。スーツは嫌いじゃないんだけど、私は就職しなかった意地で、できるだけ着ないようにしている。女子大なので、はじめて入るとき警備員に呼び止められたり(私服では不審人物に思われるらしい)、講師室に入ろうとすると「学生は入らないで」ととめられることもあった(私服で通すのは、もう少し年をとるのが必要なのだろう)。なんとなく、逆に意地になって、まだスーツは着ていない。
 
 それまで数年間は、某大学で「情報処理」を教えていたのだけど、どちらかというと、これは、大学の非常勤というよりも、インストラクターだった。 Word、Excel、メールを教える程度だし、なんといっても私がSFCに入学したころと違い、大学1年生の半分くらいの人がすでにPCを使っている状況で、さらに基礎的なことを教えるのだ。メディアリテラシーなど工夫して教えようとはしたけど、せいぜい「ネチケット」程度だろうか。「コンピュータの歴史」「インターネットを使う人の心理」など頑張って授業に盛り込もうとしたけれども、それは、「情報処理」を受けにきた生徒からは必要とされていなかったし、学校側からも要求されていない。もうPCは勉強する対象というよりも、最低限、身につけなくてはいけないツールなわけで。できるだけ、徹底して「インストラクター」に徹底すればよかった。けど、自分で授業をしていて、なんかなあ、と思ってしまった。別に、自分でなくても、誰でもいいのだ。代わりなんていくらでもいる、、、、。
 そういう意味で、今回は初めての経験で大変だったけど、ある意味、充実感があった。はなしをすることがこんなに難しいとは思わなかった。大学の先生って大変なんだな、と思った(いまさらか)。
 そして自分ではじめての授業を終えて、一つ、すごく勉強になったことがある。自分の足で調べて、直接話しを聞いて、過去を丹念に調べたことには、みんな不思議とよく耳を傾けるのだ。

「自分で」語るということ

私は普段、災害や公害問題の報道、情報伝達、心理を研究している。研究というよりも、調査という言葉のほうがイメージしやすいかもしれない。災害や公害問題が起きた時点で、現地に行って話を聞いたり、アンケート調査で調べるのである。
 3年前に、JCOという核燃料加工施設で事故のあった東海村を訪れたとき、私は、さぞや、住民は、行政の対応などに不満を多く持っているのだろうと思っていた。しかしそんなことはなかった。いや、不満の方向が違うのだ。
 事故前後、東海村役場の職員は、徹夜、徹夜で、避難住民のケアをしていた。お年寄りが多く、気分が沈みがちなので、非常食ではなく「温かいご飯を」と職員の人は考え、必死に近くのコンビニ、弁当屋を駆け回り、トラックいっぱいの弁当を用意したそうだ。「10km圏内屋内退避」という措置がとられたので解除された後も、弁当屋さんは東海村まで弁当を届けることを嫌がったので、10km圏外すぐの高速道路のPAまで職員の人が直接取りに行ったりして、とにかく弁当を必死で集めたのだそうだ。情報収集にしても、村役場の職員の人は、事故の情報が入ってこない中で、直接村内の原子力関係施設まで行って、様々な情報を自主的に集めてきたそうだ。結構小さいコミュニティだから、そういう職員の苦労を住民は知っている。だから、文句なんかそんなに言わない。少なくとも東海村に関しては。
 そして、4人に一人は原子力関係に勤める村だから、「脱」原子力というより、その今ある原子力との「共生」を考えていかなくてはいけないんだという現実がある。彼らに、原子力はよくないですよね、ということが彼らのためになるのではない。そこに生きている人にとって、一番のぞましいのは何かを考えることが大事なのだ。
 
 7月20日に、19人が死亡した水俣市の土石流災害を覚えているだろうか。数日前、被災地に行ってきた。「県からの情報伝達が遅れた」「市は避難勧告をなぜ早くだせなかったのか」「避難はなぜできなかったのか」と報道では自治体の対応が批判されている。
 けど色々、話を聞いて、被災地を見て、考えさせられた。
 県内・市内には、土石流危険渓流に指定されているところはたくさんあり、被害が起きた場所よりも危険そうな場所もたくさんある。被災地に行く途中でも、がけ崩れの起きている場所もたくさんあった。近くに被災地区よりも急斜面に立っている家も多い。その中で被災地は意外と、結構平らな場所にある(土石流とは山の上から川にそって土砂がながれてくるものなので、その場所がたとえ平地だろうとおきるものだ)。もちろん、テレビや新聞からだけの情報ではそのような状況はまったく分からない。
 水俣市には30年近く災害がなく、しかも「想定外」の雨量。急激な雨が降り出してから1、2時間程度の災害発生。もちろん、雨量などの情報伝達に関して自治体の情報伝達に不備があったのは確かなようだけれども、もし仮に情報伝達が全てうまくできていたとしても、事前に避難勧告を出せたか、出せたとして深夜に速やかに避難ができたかどうか、つまり今回の災害で被災者の命を救えたかどうかはわからない。その場所に住むこと自体の問題だからだ。けど、そこに人々が住んでいるのは、そこが生まれ育った場所だからだ。簡単に「移転」などは考えられない、考えたこともない、というのが当然だと思う。
 今調査をしている段階なので正確にはいえないのだけど、かんたんに「避難勧告が遅れたのが問題だ」「危険な場所に住んでいることが問題だ」などと、第三者の立場で言うことはできない。
 被災地にあった、花束の脇の泥だらけのテディベアとタバコが目に焼きついている。
 被災している人、真摯に取り組んでいる人たちを前にすると、理想論は語れない、と思う。足で事実を集め、過去を丹念に調べて、やっとその人たちと向かいあえる、と思う。まだそこまでできていないけど。
 そして、そんな自分で見て、調べてきたこと、感じたことを「授業」で話すと、不思議と「食いつき」がいいのだ。真面目な話でも、聞き入ってくる。多分、人間って、その人間がどれだけ熱意を持っているかとか、どれだけ真摯かとかを嗅ぎ分ける本能みたいなものがあるのだろう。

最後に

これから、私は調査や研究を続けていくと思うけど、どういう形にしろ、環境汚染、公害や災害で苦しむ人たちのことを救うような研究を続けたいと思う。
 ただ、これからどう生きていくかはわからないけど、自分の考えや思ったことを自信を持って語れる人間になりたい、と思う。それには、経験も年齢も足りないけど。
 大学のときは、自分がこれから何ができるのかをさがそうと必死だった。部活に4年間を費やしたことは後悔していない。一つのことにあれだけ必死になれることなんてそうないし、そこでかけがえのない人々と出会った。けど、それによって、様々なものを犠牲にしたことはちょっと後悔している。授業にも真面目に出てなかったし。将来の仕事、自分の専門などを探そうと必死で、学校でも単位を集めることが大事で(SFC生らしくないなぁ)、先生をはじめとして、出会った多くの人その人を、その人の立場としては理解していなかったんじゃないかと思う。そのときは、そんなこと考えていなかったけれど。
 もう少し、大学のときから、もっと、多くのいろんな人やいろんな先生と真摯に接するようにすればよかったと思う。大学を出て、真摯に本音で語りあえる人と出会えるのはすごく大変。「そんなあたりまえのこと、いわれなくてもわかっているよ」という声が聞こえてきそうだけど、最近ほんとうにそう思う。仕事で忙しい中、夜中まで自分の思いを語ったり、飲んだり、つきあってくれる友人なんてなかなかいないから(友人には感謝!してます)。
 あと、自分の目で、足で調べること、いろいろ話してみることが大事だと思う。頭の中で分かった気になるんじゃなくて。自分で考えたこと、自分の思いを語ること。これが、すごく大変。情報過多というと陳腐な言葉だけど、マスメディアやインターネットなどで知ったこととか集めた情報とかよりも、少しでいいから自分で汗をかいて見つけたこと、考えたこと、語ることが大事だと思う。言葉の重みが違うんですよ。
 たぶん、、、(書いてて、自分の首を絞めてる感じがするなあ、、、)。

関谷直也(せきや・なおや)さんプロフィール

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総合政策学部卒。體育會弓術部卒。
東京大学大学院人文社会系研究科社会情報学専門分野博士課程在籍。
専門は、環境情報、災害情報、風評被害、社会心理。
環境問題や自然災害における報道・情報伝達、それを受け取る人の心理について研究している。