外国語教育や外国語との関わり方について考える「Languages」。前々回は、アラビヤ語研究室の奥田敦総合政策学部教授と植村さおり総合政策学部講師に、お二人がイスラーム教徒になるまでを振り返っていただいた。最終回となる今回は、お二人の「先生」としての側面に焦点を当てる。

ムスリムの先生として

植村:
 私がムスリマになったとき、奥田先生から注意されたことは、「イスラームの教義によって、他者に不寛容になってはいけない」ということです。

奥田:
 イスラームの根本には寛容の精神があります。教えに忠実になろうと必死になるあまり、他者に不寛容になると、むしろその教えに反してしまう。そういう側面がイスラームにはあるのです。ムスリムになって間もない人ほど、そうなりやすいところがあります。
 ですので、そうならないように十分に気を配らなければなりません。特に私たちは教育者であり、多くの学生にとって初めて出会うムスリムでもあります。そんな私たちが偏ったふるまいをすれば、彼らはイスラームを誤解してしまう。その意味で、私たちの責任はとても大きいのです。

植村:
 今でも、それは注意していることです。

奥田:
 昔は、教師はとにかく偉い存在と思われていて、学生からすると近づきがたいところもあったかもしれませんが、いまは違いますよね。教師と学生の差はどんどん縮まっていて、学生の考えも尊重されるようになってきました。それはとてもよいことだと思います。とは言え、それは教師の役目が小さくなったということではありません。
 こういう言い方は古くさく聞こえるかもしれませんが、私は、教育者として、そして「責任ある大人」として、学生たちに示すべきものがあると考えています。もちろん、彼らはもう成人するかしないかという年齢ですから、自分で決めてもらってよいのです。しかし、それでも、大人として、人として、伝えるべきは伝え、示すべきは示していきたいと思うのです。彼らが同じように考えるかどうかは別としてね。

アッラーと日本の神様

奥田:
 今の日本では、お金とか、小さな人間関係とか、そういう目に見えるものだけを気にして、神様みたいに信じられてはいないでしょうか。それらは、とても“小さなこと”なはずですよね。こういうことに振り回されない人が本当の「大人」だとするならば、大人にめぐり合うことは少ないように思えます。
 そんな状況だからこそ、もっと“大きなもの”を見ましょう、と私は言いたい。それを見失っていなければ、大きく構え、大きく生きていくことができる。ムスリムにとってはそれがアッラーです。もちろんアッラーは自分だけの神ではありません。世界中の人々がみんなで一緒に信じることができる神です。すべての「小さなこと」を余すところなく優しくすっぽりと包んでいる唯一の完全な存在、それがアッラーなのです。

植村:
 そういうものが想定できるとしたら、それをアッラーと呼ぼうという。

奥田:
 そして、それを唯一の従うべき神としようというのがイスラームです。

日本には野球の神様とか、トイレの神様とか、いろいろな神がいますよね。よく「最後に野球の神様が笑ってくれた」という言い方をすることがある。それはそれで、日本人らしい信仰の形なのかもしれません。
 でも、野球の神様は野球をやる人の神様であって、ほかの分野にも出てきて何かをすることはないですよね。ほかの人は、水泳の神様を信じていたり、お金を神様みたいに信じていたり、SNSに依存していたりする。
 イスラームの神というのは、そういうバラバラなものではないのです。むしろ、そのすべても包むような、完全な一個のものとして捉えられている。
 日本人は、どうしても森羅万象を分けてしまって、自分に関係するところに神を見てしまう。人間関係でも同じかもしれません。これに対しイスラームでは、むしろ森羅万象の後ろ側を見ていきます。となると、自分たちが頼っているものも、あなたがすがっているものも、手繰っていけば結局同じもので、すごく大きいもので、みんなを受け止めてくれるようなものなんだよ、と考えるのです。積極的にそういう存在を受け入れて生きている人たちが、イスラーム教徒ということなのです。

何ものにも囚われない人間になる

奥田:
 私自身、皆さんと何ら変わるところがない、普通の日本人です。ただ、従うべきは、すがるべきは「大きなもの」――つまりアッラーということですが――と決めていて「何ものにも囚われない人間らしい人間になろう」と思って生きている。教員プロフィールにもある通り、それが私の生き方です。
 もちろん、人間はみな社会的なつながりの中にいるのですから、囚われないわけにはいかないですよ。目の前にあるものがすべてになって、周りが見えなくなることだってありうる。それでも、いちばん大きなもの、アッラーにしたがって、「小さなこと」に惑わされずに生きようとしている。そういう生き方を学生にみてもらって、「こういう生き方もありなんだな」と思ってもらえればと思うのです。

人材教育という言葉があります。私はその言葉が好きではありません。私は人を育てたいのです。人材をつくりたいのではありません。人は材料ではないでしょう。どこかの企業を儲けさせたり、組織の役に立ったりするだけの人間をつくるということに、私は関心がないのです。
 私が、イスラーム教徒として、そして教育者として伝えたいことは、「何ものにも囚われない人間になりましょう」ということ。おいしい話に釣られたり、「小さなこと」に惑わされたり、「小さな」人間関係に囚われたりしないで、もっと大きなものを信じて生きていきましょう。地位やお金に関係なく、よい言葉とよい態度で人と付き合いましょう。困っている人がいたら手を差し伸べましょう。縋るもの、しがたうものを間違えずに、慈しみ合う、つまり自分のことのようにまわりも大切にしましょう。そういう人間らしい生き方というものを実践し伝えていきたい。それは、イスラームが私に教え、確信させてくれたことでもあります。
 イスラーム教徒になるという形ではなくても別にいいんです。もちろん、イスラーム教徒になれば、たとえば、毎日5回祈る度にそうした生き方を思い出すことができますし、貧窮者、困窮者への施しも義務として行えることになりますから、信者になるという選択肢ももちろんあっていい。別の形があれば、それでもいい。要は、「小さなこと」に惑わされず、振り回されない「大人」になること。
 SFCで私の授業やアラビヤ語を取ってくれる学生たちはもちろん、それ以外の皆様も、そういう大きな人間として成長してほしいと、私は思っています。