SFC生の就職を語る上で避けて通れない話題が、「SFCバブル」と呼ばれた人気の過熱と、その崩壊に伴って急落したといわれるSFC生の就職率だろう。開設当初のSFCは革新性な取り組みを評価され、人気を博した。ところがその評価はおよそ10年の間に急落することになる。SFCに対する世評の流れを「就職」というキーワードを軸に見て行こう。

週刊誌のコラージュ

ハーバードの教授に賞賛されたキャンパスが「プータロー製造工場」と呼ばれるまで

SFCがどのようにメディアで取り上げられてきたかを知ることは、世間のSFCへの評価を知る上で役に立つ。たとえばハーバード大学名誉教授のエズラ・ボーゲル氏はかつて日経紙上でSFCを持ち上げるコメントを残している。

「私は慶応大学の藤沢キャンパスを高く評価している。海外で数年生活して藤沢キャンパスで勉強したような人を企業が採用すれば、すばらしい創造力のある人が出てくるかもしれない」――エズラ・ボーゲル (1996年7月12日、日本経済新聞)

エズラ・ボーゲル氏は『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を書いた、大いなる日本びいきの学者であることは踏まえなければいけないだろう。しかし世界的に有名な大学の教授が、日本の1キャンパスをこのように評価した時代もあったのだ。AO入試やオフィスアワーといった制度をはじめて日本の大学に持ち込み、高度な情報環境を整えた先進的なキャンパスの姿は、開設当初さまざまなメディアに取り上げられ、好評を博した。
 しかしその後、SFCへの評価は一転して厳しいものへと変わってゆく。ボーゲル教授の賛辞から7年後、週刊現代は就職率の凋落傾向が著しいとしてSFCを「もはやプータロー製造工場だ」とこき下ろしている。
 主張者・媒体の違いはあるにせよ、両者の間にはとても同じキャンパスに対する評価とは思えないほどの落差がある。一体この間に、SFCには何が起こっていたのだろうか?

1990年 SFC開設

「バブルの発生、バブル崩壊、そして平時へ」SFCのこれまでの活動をまとめた『未来を創る大学』(2004)では、社会からのSFCへの評価の変遷をこのようにまとめている。
 SFCは1990年、日本のバブル景気が崩壊を始める時期に開設された。翌91年入社の大卒求人倍率は当時の最高値をつけており、学生は苦もなく内定を得ることが出来た。つまらない講義はサボり、試験の時期にノートを融通して単位を揃え、好景気の恩恵にあずかって華やかな遊びに精を出すという学生生活の文化が栄えており、日本の大学は「レジャーランド」といわれて久しかった。ところがその後のバブル崩壊により新卒採用市場は一変。翌92年には「就職氷河期」という言葉がリクルートから生み出されることになる。
 このような状況下で神奈川の辺境に突如出現したSFCの存在は、当時の教育関係者にとって衝撃だったという。レジャーランドと化していた従来の詰め込み方の教育システムに対し、高度な情報環境を備え、語学教育を重視し、問題発見・解決を志向する新キャンパスの教育スタイルは斬新で、注目を集めた。

教育関係者からの注目

キャンパスには教育関係者の視察が相次いだ。調査班で調べた範囲でも、開設初年度に愛知県立大学外国語学部教授、文部大臣、専修大学常任理事、同志社大学神学部長、上智大学新キャンパス建設委員、東京私立中高協会、東京工科大学理事長、文教大学国際学部関係者らがSFCに訪れている。
 国内のみならず海外からの視察者も多く、ハーバード大学、スタンフォード大学、カーネギーメロン大学、テンプル大学、ロイヤルアルバータ大学からもゲストが訪れた。単なる視察ではなく研究や授業を一緒にやりたいという提案もあったという。OECD(経済協力開発機構)も日本の大学に対しては10年ぶりに、調査団をSFCへ派遣している。

先進性なキャンパス環境

一連の視察の中でも高度な情報環境を整備したキャンパスのハード面には注目集まり、「コンピュータ施設などの充実度では、世界の大学で三指に入る」(カーネギー大学教授)と評価が高かった。600台の端末を学内LANで結びインターネットへアクセスできる環境は、今でこそありふれた設備に見えるかもしれないが、90年代前半においては先進的なことであった。一時は全国の約8割の電子メールがSFCで送受信されていたという。
 ほかに研究を行う適切な場所がないという理由から、国が私学であるSFCに研究施設を置くという異例の事態も生まれた。これは現在のZ館にあたり、当時は情報基盤センターと呼ばれた。通産省の外郭団体であるIPA(情報処理振興事業協会)がSFCとの共同研究の一環で設置したもので、およそ52億円の予算を投じて1995年5月に竣工した。建物はIPA所有であるが、センターの運営はSFCに委ねられており、公共図書館の蔵書目録統合などの研究が行われた。開設当初のSFCのキャンパス環境が、他にない独自のものであったことが推察されるエピソードだ。

Z館

メディアも期待視

新キャンパスの斬新な取り組みは、常に新奇なものを追い求めるメディアからの注目も集めた。慶應義塾は日本の有名大学であり、その塾長の交代も全国紙で報じられるところであるため、メディアにおいてSFCへの言及があったとしてもそこまで特筆すべき事柄ではないかもしれない。ただ主要全国紙の「湘南藤沢キャンパス」を含む記事数は、ピークの95年-97年にかけては年間70件を超えており、乱暴な喩えをすれば、この間毎週1回はSFCが新聞に載っているという状況であった。その中には件のボーゲル教授の発言も含まれている。
※主要全国紙=朝日・読売・毎日・産経+日経4紙(ヴェリタスは当時のニッキン)
 『財界』や『プレジデント』などのビジネス誌においては、開設から5年の間にSFCのコンピュータ教育や外国語教育の特色に期待を向ける記事が見られるようになる。週刊誌も慶應義塾の人気復調の要因をSFCの貢献によるものと説明した。キャンパス開設からおよそ7年の間は、こうしたSFCを好意的に取り上げる記事が世間に出回っていた。

受験におけるSFC人気と「文系最難関説」

当時の偏差値

世間の高い注目を反映してか、入学志願者も殺到した。開設初年度には両学部合わせて1,000人ほどのキャンパスに、一般入試枠だけで17,000人近い入学志願者が集まった。初頭効果で多く集まった面も否めないが、その後も一般入試志願者は96年まで1万人を超えており、多くの志願者を集めるキャンパスであり続けた。週刊朝日編の『大学ランキング’97』において、高校教師に生徒に勧めたい大学学部を尋ねた「生徒に勧めたい学部」部門でも、SFCの2学部が2位・3位につけ塾学部中のトップとなっており、当時のSFCの人気ぶりが伺える。
※1位はICUの教養学部。
 "脱"偏差値入試を掲げ、日本の大学として始めてAO入試を取り入れたSFCであったが、多くの志願者を背景に入試偏差値も高く推移し、やがてSFCを文系入試の最難関と評する声も聞かれるようになった。これはSFCの予備校偏差値がそれまでの文系最高峰とされた早稲田大学政治経済学部と並び、一部においては上回ったために出された考えだ。たとえば福武書店による1993年時点での総合政策学部の入試偏差値は83(合格可能性60%)であり、医学部を除いて全大学中トップと測定されている。
 もっとも突出して高い偏差値には理由があった。SFCの場合、予備校により偏差値を測定される科目が「英語」や「数学」など一科目に限られるために、2 -3科目の偏差値を総合して算出する比較対照の学部よりも値がいきおい高くなってくるのは当然だろう。また、大学の偏差値や人気のランキングは主に受験産業やメディアが独自の調査を基に作り出すものであり、必ずしも客観的かつ整合性のあるデータであるとも言えない。
 しかし独特の小論文の論題や、学習指導要領のレベルを大幅に上回る大量の英文読解を課すSFCの入試が、今までの大学受験の勉強スタイルでは対応し難いものであったことは確かであり、過熱する人気に乗じて「最難関」という言葉は広く用いられた。

1994年- 就職バブル

難関入試をくぐり抜けた、今までにない有名大学の新設学部の学生ということもあり、企業は就職氷河期とあってもSFCの学生に食指が動いたのだろう。開設当初のSFC生は就職にも困ることが無かったと言われている。産経新聞は94年に「ユニーク新設学部一期生 就職戦線に大モテ 不況下 女子も9割」という見出しでSFC生の就職市場における人気を報じている。また総環2学部合算の学生数が経済学部や法学部の単体よりも少ないわりに、三井物産やNTTなど個別の大企業への就職者数で他学部を上回っている状況から、学内ではSFCによって他学部の学生が締め出されているという見方まで生まれた。
 冷静に考えれば、SFCには注目を集めた新設学部であるという優位性もあり、また個別企業の採用数から全体を論じることはやや危険な行為だろう。『未来を創る大学』は、こうした当時の就職市場におけるSFC人気の過熱をこう振り返っている。

 SFCの卒業生は、たとえば履歴書に「慶應義塾大学環境情報学部卒業」と書いたとたん、社会にはある一定の条件を満たした人材として受け止められてきた。 (中略) 「SFC卒」の肩書きさえあれば、就職に困ることはないかのように受け止められた側面があった。確かに一部には「SFC卒」という肩書きによって「ゲタ」を履かせてもらった学生もいただろう。 『未来を創る大学』

時宜を得て出現した新しい教育スタイルへの注目から、開設-96年ごろまでの期間で、就職に関しても実態以上にもてはやされる「バブル」状態が、当時のSFCには生まれていたのだ。ではこうしたバブルはいかにして、いつごろから崩壊に向かっていったのだろうか? <<後編へ>>