10日(日)、東京・多磨霊園で三田体育会による小泉信三元塾長の墓参が行われた。体育会の発展に尽力した小泉元塾長の精神を再認識する場となった。

清家篤塾長からも供花

今年で4年目となる小泉元塾長の墓参。当日は、三田体育会のほか、参列できなかったものの清家篤塾長からも花が供えられた。
 

三田体育会による参墓の様子

三田体育会は義塾体育会のOB・OGから成り、体育会の活動の支援を目的としている。この参墓は、三田体育会前会長の西岡浩史さん(野球部OB・昭和38年主将)が始めた。体育会の発展に尽力した小泉元塾長の精神を再確認するためだ。
 

受け継がれる小泉元塾長の精神 「塾生全体で体現を」

4月に新たに会長に就任した奈藏稔久さん(空手部OB・昭和44年卒)に墓参の意義について話を聞いた。小泉元塾長が残した言葉に「スポーツが与える3つの宝」があるという。それは、「練習は不可能を可能にする」「フェアプレーの精神」「友」だ。奈藏さんは「大変すばらしい考えだ。私たちは、小泉先生の教えを直接受けた最後の世代であり、当時このお言葉に大変感激した。以来、これを体育会の精神的バックボーンとしてきた」と説明した。そして、「2017年の体育会創立125周年、2020年の東京オリンピックを前に、これを三田体育会のみならず、現役の学生に再確認し、体現してもらいたいという願いの強い表れが、きょうの小泉元塾長の墓参だ」と続けた。

来年は小泉元塾長没後50年となる。温故知新、この機会に小泉元塾長の言葉を手に取り、スポーツに限らず人生の一つの道標として考えてみるのはいかがだろうか。
 
【小泉信三元塾長】
 1888年(明治21年)、義塾第2代塾長の小泉信吉を父として当時の東京市芝区三田に生まれた。普通部及び大学部政治科を卒業したのち、大学部の教員となり経済学や社会問題研究のためイギリスとドイツに留学。この欧州留学中にウィンブルドン観戦をしたという。帰国後、経済学部教授に就任し、1922年から塾長就任の1932年まで体育会庭球部の部長を務めた。
 塾長就任後も体育会の発展に大きく寄与した。在任中の1943年、戦時色が強まるなか、ついに六大学野球に解散命令が出た。小泉元塾長は学徒出陣を控えた学生たちにせめてもの餞をと思い、早慶対抗野球試合を提案した。これが出陣学徒壮行早慶戦、別名最後の早慶戦だ。試合の65年後の2008年には映画化もされた。小泉元塾長は没後の1976年に野球殿堂入りしている。
 塾長を退任したのちの1949年には東宮御教育常時参与として継宮明仁親王(今の今上天皇)の教育に当たり、初の民間人として皇室に入った美智子妃との実質上の仲人とも言われている。
 1966年(昭和41年)5月11日死去。享年78。