2014年度から総・環両学部で外国語が必修化された。外国語教育に注目が集まるいま、外国語教育や外国語との関わり方について考える新企画「Languages」 第1回は、フランス語研究室の倉舘健一講師に話を聞いた。今回はその前編をお届けする。

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「もっと豊かであるべき」最近の外国語事情

 今年の1年生に学びたい言語のアンケートをとったら、英語を抑えてフランス語が一番人気になったらしいね。これはかなり珍しい。他の大学だと、だいたい英語が一番人気なんだよね。SFCに来るような学生は、英語はもうできるっていうことかもしれない。
 昔は大学に来たら二つ目の外国語をやるっていう伝統があったけど、いまは英語をやったほうが得だという考え方が広まっている。これは、ぼくはちっともいいことじゃないと思う。
 いま言われている英語力というのは、TOEICで何点とれるとか、TOEFLで何点とれるとかそういうのでしょ。ひとつのものさしがあって、ものさしのここ以上までできるようになりましょうというもの。国の経済を回すのには使えるかもしれないけど、くだらないよ。外国語教育はもっと豊かなものだと思う。

「異文化は自分を揺るがす」外国語教育にできること

 というのは、外国語の授業というのは異質なもの多様なものに触れるいい機会なんだよね。他の授業ではそういうものに触れる機会が極めて少ない。日本の外の言葉と外の文化、両方を外国語の授業では扱っている。異種性というかな。異種性に触れるというのはすごく重要なことで、それによってしか異質なものの取り扱いというのは上手くならないんだよね。
 異質なものを取り扱うというのは、例えば、全然違う文化の人と付き合えるということだ。ぼくの学生時代は、外国人はほとんど日本にいなかったけど、いまは普通にキャンパスを歩いている。それほど近くに違う文化の人がいると、自分が揺らいでしまうんだよね。相手の常識と自分の常識が違っていて、いままで普通だと思っていたことが普通じゃなくなって混乱してしまう。そもそも環境自体、どんどんわけがわからなくなっていく。そういう混乱に慣れておくということが大事なことだ。きみらの生きる社会は日本人にとってはまったく未知なそんな世の中。こころの準備は大丈夫かな?

日本のなかの異種性、自分のなかの異種性

 さっきは外国人を例にとったけど、本当は異種性というのは外国のものに限ったものじゃない。日本のなかにも異質なものはあるし、もっといえば一人の人間のなかにも異種性はある。
 日本人というと皆が均質なように感じているけど、本当はもっとめちゃくちゃなものだったりする。よくよく考えてみれば、同級生や先生のなかにも自分の常識から外れている人がいたでしょ。本当は全然均質じゃないし、自分を揺るがすものというのはたくさんある。
 一人の人間のなかにも、自分を揺るがすものがある。自分のなかにある矛盾のことだ。自分のなかには、女の子が好きな自分もいるし、男の子が好きな自分もいる。ぼくはどっちなんだという葛藤がある。自分のなかの分裂があって、それを見つめることは難しい。でも、そうした葛藤でも、今のうちに徐々に慣れて、ワクワク楽しめる余裕ができれば、ずっと楽になるはずだよね。

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自分の分裂に向き合うために

 例えば、脱原発と原発推進の二つの立場があるよね。絶対に脱原発という人もいるし、絶対に推進すべきという人もいる。
 でも、大体の人っていうのはその間の立場にある。自分の中で分裂している。反対だけど、ちょっと賛成とか。基本的に賛成だけど不安とかね。でも、それを自分のなかから出して表現するときは、大反対か大賛成のどちらかになってしまう。自分が整理できていないからそうなるんだよ。自分のなかにある複数の立場を整理して、外に出すことができないんだ。
 大反対と大賛成だけで話していても、議論が前に進まない。だから、複数の立場、異種性と向き合って、処理する技術が重要なんだ。その訓練として外国語の授業はあるのだと思う。

違いを際立たせる授業を

 だから、ぼくの授業では異種性と出会うことを目指してやっている。日本とは全然違うフランスのくだらない文化についても紹介したり、お互いに話し合わせてみたりしている。大学には大体同じような年齢で、同じような社会階層で、同じような文化背景の人が集まっているけど、話し合わせてみるとお互いの違いが際立ってくる。一人ひとりの個性が現れやすいように、それぞれの違い、異種性が際立つようにぼくは授業をしている。
 他の授業だと、いろいろ教えることも多いし、大教室での講義だったりするとそれぞれの違いなんて見ていられない。一方で、もともと異文化を扱ううえ、1クラスの人数も少ないフランス語の授業なら上手く機能しうると思っている。クラスメイトが好きなものついての発表をするのを聞いて、質問させてみたりもしている。うまくいけば、閉ざされてた野性が活かされたり、知性が起動したりするんだよ。そうしたら人生、すっかりおもしろくなってくるはずだよ。

自分との関係性のなかで言語を学ぶ

 そんなやり方でフランス語ができるようになるのか? という疑問はあるかもしれない。本当のことを言うと、わからないんだよね。フランス語に限らず、外国語というものは決まったやり方によってできるようになるというものじゃないから。
 もちろん最低限必要なことはある。言語の習得に必要な第一条件は圧倒的に時間。とにかく時間をかけてやらないと言語は習得できない。だから、授業の時間だけで習得できるようになるというものでもない。
 そういう意味ではSFCは外国語学習の場としては最適だよね。ここは23時までメディアセンターが開いているし、泊まることもできる。先生も学生に引きずられて遅くまで残っているからいつまでも勉強できる。他の大学というのは、帰らなきゃいけないんだよ。18時とか19時とかにね。
 時間をかけるのは前提として、じゃあどういう風に勉強すればいいかはわからないという人がいる。しかし、それは自分で見つけなくてはいけない。みんなに共通の効率的な勉強法があるというものでは全然ないんだよ。
 例えば、どうしても語彙が覚えられない人を昔教えたことがある。時間もかけたし、いろいろな覚え方を試してみてもダメだった。でも、ある時「お菓子」に関係した単語なら覚えられることがわかった。それから、お菓子に関する単語から広げてフランス語を覚えていった。こんなの世間一般の参考になんかならないでしょ? 時間をかけて、どうやれば今の自分は壁を乗り越えられるんだろうと考えながら、試行錯誤していくしかない。
 外国語学習はそういう個別的なものなんだよ。さっきも言ったけど、1つのものさしで測れるような話じゃない。みんなそれぞれに読みやすい文章とか、話やすい人とかいるでしょ? それを無視して、試験官が用意した文章や試験官の話を理解できるかどうかで能力を測られてもなにもわからないよ。決まりきった学習体系があるんじゃなくて、自分との関係性のなかで言語を学ばなきゃいけないものだからね。その前提で、ベンチマークとしてのものさしならいいけど、教育産業って結局そんなふうで、目的として価値を逆転させてしまうもんなんだよ。これじゃ頭打ちにしかなんないわな。そんなただの業界のご都合に踊らされてちゃだめなのよ。

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 外国語学習は単に言葉を話したり、洋書を読んだりする能力を養うものではない。学ぶ人間のアイデンティティを揺るがし、つくり直してしまうほどの力を持つものだ。そんな信念を持つ倉舘講師は、どのような経緯で外国語教師になり、いかにしてこの考えに至ったのか。後編では、倉舘講師が教師になった理由、外国語を学んだ理由に迫る。