皆さん、こんにちは。山本尚明と申します。学部時代の先輩である山崎さんからのバトンを引き継ぎまして、今回寄稿をさせて頂くことになりました。

限りなく近況のお話

とにもかくにも、現在夜中の3時。先ほど、同じ会社の友人であり、かつ、音楽家でもある友人と遅い夕食の食事をした勢いで、つづってみたいと思います。
 自分のことではないのですが、その友人のことを少し書くと、彼はエコーマウンテンというバンドをやっている友達で、近いうちに彼のバンドのCDが、あるインディーズレーベルから出ます。最近はあるアーティストから、楽曲の提供を頼まれているそうなのですが、そんな彼も、月曜日から金曜日の定時は、サラリーマンをやっています。彼は、会社できゅーっとたまったものを、家に帰ってクリエーションとして出すサイクルに慣れてきたといいます。
 僕自身は今まで個人でやってきたことと、会社でやっていることの境目がなく仕事をしています。ちなみに、会社での仕事は、先端技術をまず最初にカタチにするプロトタイプのデザインやら、生活者の視点でどのようなものがこれからあったらいいかを調べたり、絵にしたりする仕事です。ネットラジオ端末やら、超音波ヘッドホンやら、仮想音源のオーディオなどのへんてこなプロトタイプのプロダクトデザインをやっています。どちらかといえば、会社でクリエーションを吐き出して、家のなかで、キューとなりながら、布団のなかで少女漫画や少年漫画を読みあさる日々だったのですが、最近は少し生活が変わってきました。ひょんなことから知り合った大学教授と、Earth Literacy Programを探求するワーキンググループを始めたからです。そのワーキンググループは、SFC時代の親友と、メディアプランナー、メディアアーティストの人たちからなるもので、それぞれがやっている活動や仕事を共有しながら、メタにプロジェクトを推進していく活動をしています。そのワーキンググループが、いつのまにか生活や思考において大きな部分を閉めてきて、会社が終わればそのメタプロジェクトのワークをするという日々を過ごしています。
 最初に、音楽家とサラリーマンという二重生活をしている友人の話から書き始めたのは、組織に属して働くことと、個人として生きていくことなど、当たり前のことですが、複数のプロファイルをもって人々が生きている世界を少し考えてみようと思ったからです。

2つの世界の住人

学生時代、須賀敦子さんの小説を一時読みふけった時があり、彼女の小説のなかで、度々でてきた詩人にウンベルト・サバというヒトがいました。彼は、「2つの世界の書店主」という名前の本屋さんを営んでいました。2つの世界というのは、ハプスブルク家支配のオーストリアとしてのトリエステと、レコンキスタ後の、イタリア領に復帰した後のトリエステをあらわしています。オーストリアに占領されているときは、その町の人々はイタリアに戻りたい戻りたいと願い生活をしていました。オーストリア領であるときは、皮肉なことに国の最南端の港町として繁栄したのですが、解放運動の成果が実って、いざイタリアの領土に復帰すると、町はそれほど重要な港町でなくなり衰退してしまいました。
 僕は、この「2つの世界の」という感性がとても好きでした。SFCの学生であった自分自身に、今会社に属して働いている自分自身に、この感性をからめて書くことができればと思います。

気が付けば、今はプロダクトのデザインをやっている

では、学生時代の話を書きます。入学して、数ヶ月、先輩の誘いで、僕は文芸誌の編集、小説書きを始めました。先輩の家で、たくさんの本に埋もれながら、ああでもない、こうでもないと議論して床に倒れる生活を続けておりました。記憶にあるのは、ミーティングが終わった後の、灰皿の煙草がこんもり、心地よい音楽がたゆたう中、布団に体を半分入れて、起きているのか寝ているのか分からない姿で、エディトリアルのデザインをしていく編集長の姿でした。
 自分でデザインをやってみたいと思い、文芸誌をつくる傍ら、友人が建築を勉強をするサークルをつくるというので、おもしろ半分に参加していましたら、サークルの顧問であった渡邉朗子先生の誘いで、都市デザインのコンペに参加することになりました。デザインを自分の作品としてやったのは、おそらくそれが初めてだったと思います。そのコンペを進めていく際、前号の寄稿者の山崎さんにセンソリウムのサイトを紹介されました。センソリウムは、インターネットを使って地球大の想像力を感じられる、まさに感覚の博物館だったのですが、このサイトを見て、雑誌の編集部を辞めることにしました。ペーパーナイフの優秀な先輩方から、一度離れなければならないと思ったのと同時に、センソリウムを見て、文章を書く以外に自分にできるデザインがあるかもしれないと踏ん切りがついたからです。
 そうして、学校では同級生よりは半期遅れという感じで、池田研に入りました。最初の課題が、住宅だったのですが、これがまた面白くというか、多分建築的素養には?なところがあったので、建築模型にカッティングシートを張ってコラージュするのが楽しくて、グラフィックを作るように空間を作っているのが面白くて、どちらかといえば、空間ではなくグラフィックを作っていたような気がします。そのころ、エレファントデザインというところで、ウェブデザインのバイトを始めました。デザインでお金をもらえる(=プロの気分)という感じで、ちょうど空想家電(現在の空想生活)というプロダクトのコミュニティーサイトの立ちあげだったのですが、その仕事にかなりかまけました。また学校は学校で、サークルの顧問であった渡邉先生が三田にGSECラボを作るという時期でそのお手伝いもしたりして、かなり忙しく過ごしていました。
 そして、学生最後の締めくくりに取り掛かろうとしている10月頃、友人から、慶應で世紀送迎会という会があるのだけれど、その会の空間デザインを考えてくれないかという話がきました。自分がデザインの世界でいきていこうか決めようと思いながら、GSECラボを使って、時の流れを様々に体感できるインスタレーションを制作しました。優秀な後輩や、友達、インド人やら、1週間前に出会った人も含め、20世紀の最後の数ヶ月を、ほとんど風呂も入らず、学校にも行かず、ラボで寝泊まりしながら、制作を続けました。おそらく、どっぷりこもって制作をするというのは、この卒業制作が初めてだったのではないかと思います。
 で、学生時代には、空間デザインを修めたはずだったのですが。なぜか今は、プロダクトのデザインを会社でやっています。こう書き連ねると、自分自身は絶えず2つの世界に属しながら、綱渡りをしてきたように思います。
 学生時代に、プロダクトデザインの授業をとったのは、一コマだけで、いざ現場に放りこまれると、それは悲惨な感じではあります。専門用語は分からないし、スケッチは伝わらない。八方ふさがりで、擬態語でイメージを伝えようとすると、これはかなり?になります。長島茂雄では、当たり前ですが正確なモデルを作れません。ほぼ毎日のように先輩や上司にしかられながらやっているのですが、こういった風に仕事をやっていけるのは、自分の中で、2つの世界の住人である意識があるからかもしれません。自分が世界に絶えず関与しようとする視点があれば、意外とどこにいっても人はやっていけるものだと思います。

airsdesign

「2つの世界の」感性として、話は飛びますが、学生時代学んだものとして、建築家では、カルロ・スカルパとロバート・ベンチューリが好きでした。ベンチューリは、ラスベガスの景観の研究をしたヒトですが、彼は、自分のそのデザインリサーチのなかで、アコモデーションという言葉を使っていました。日本語で言うと「つじつま合わせ」という意味ですが、僕自身が今デザインをする上で、全体的な論理の美しさを思う以上に、このアコモデーションを、全感覚で行うデザインの良さに共感するところがあります。カルロ・スカルパという建築家は、スケッチをたくさん描くことで有名な建築家でした。彼は、現場で何千枚もスケッチを修正しながら、現場で作り続ける建築家でした。
 学生時代に、彼の墓を訪れたことがありました。イタリアの田舎町の、とうもろこし畑の中に、ひっそりとあります。そこでの空気や音、小鳥のさえずりは今でもよく思い出せます。彼の作るディティールを近くで見ては、離れたり、草むらでねっころがって、空を見たり。彼は、空気をつくっているのだなーと思いました。
 アコモデーションを全感覚で行うことというのは、土台無理なことかもしれないのですが、空気をつくっていくこととは、そういった感性なしではありえないとも思うのです。
 最後に余談ですが、入社して、最初のボーナスでデザインの同期で、京都に家を借りました。誰かがずっと住むわけではないですが、週末や休みになると、よい空気を吸いに、いろんな人が集まってくる家なので、遊びにきたいという人は声をかけてください。何か私事を書き連ねて恐縮ですが、以上をもって、僕の所感と変えさせていただきます。
<<プロフィール>>
山本尚明(やまもと・なおあき)
松下電器産業システム創造研究所戦略開発グループ戦略デザインチーム所属。
学生時代は、福田和也研究会、池田靖史研究会、渡邊朗子研究会に所属。
プロダクトのプロトタイプデザイン、インタラクションデザインの制作・研究に従事。
年内に、自身でデザインをしたオーディオが商品化します。
[email protected]
http://www.sfc.keio.ac.jp/~t97045ny/