「へええ、でもなぜ獣医に?」
この3年間で一番多かった質問がおそらくこれである。
みんな自分にとってリアルだと感じる世界を求めていく。
僕の場合はそれが獣医だった。
僕は現在とある大学の獣医学科に在籍している。
SFC卒業後まもなく現大学に入学しこの4月から新3年生、今年26歳。
デジタルの最先端から超アナログな世界への急な転身。
でもすべてはつながっている―

とってもアナログな生活

SFC時代からは想像もつかない毎日を送っている。それを紹介しよう。
 実習を中心とした専門的な授業が毎日のようにある。犬、鶏、牛などの解剖、馬の骨のスケッチ、顕微鏡での体組織切片の観察、などなど。専門学科のためカリキュラム選択の自由度はほぼゼロだ。20日に一度は牛の世話を当番で行う(免疫はできていたが牛臭はSFCの比でない。どんな強い香水より体に染み付く)。図書館には『月刊養豚情報』なる雑誌が大まじめに置いてあり、大学敷地内の道路を当たり前の顔をして馬が歩く。カルビってどの部位なんだとか、うちのワンちゃんのヨダレすごいの、みたいな質問がやたら増えた。人間界では「恋愛」として高尚な位置付けのある男女間のじゃれあいがオスとメスとの交尾をめぐる駆け引きにしか見えなくなった。コンピュータに向きあう機会はめったにない。アナログな生活が続く。生命の一端に触れるたび、デジタルなSFCとの違いを肌で感じる。

生命体のリアリティ

動物たちは生々しい。触れれば温かいぬくもりがあり、独特のにおいを放つ。体内を剖出していくと赤黒いグロテスクな世界が広がっていく。その様子は残酷なほど美しい。解剖実習では動物の体の臓器や組織の美しさに目を奪われる。そんなとき僕の美的感覚は知的探究心を上回る。整然と配置された内臓、無数に張り巡らされた血管と神経、各々が固有の走行を見せる筋肉、微妙なラインで曲線美を保つ骨々、それらが無駄なく絶妙なバランスで組み合わさり「体」を構成している。
 また動物は多様性に富んでいる。昔つかまえたカマキリも生ゴミをあさるカラスも我ら人間も、DNAにより制御されていることにはなんら変わりない。それぞれの種は環境に対する己の適応度を高めるべく、つまりは生存競争に勝つために、固有の色・かたちや多様な行動形質をもつ。孔雀のオスは意味もなく美しい飾り羽を持っているわけではない。進化の過程で淘汰が繰り返され、その多様性もまた変化を続けている。どの種もDNAの支配を受ける基本性質は共通だが、表現形態としては驚くほど多様性に満ち満ちている。少年の心をつかんで離さない戦隊ヒーローものはそのキャラクターの多くが様々な動物をモチーフにしたものだったりする。多様であることはカッコイイのだ。機能的にも外見的にも。多様であることが生き物に生命力を与えている。
 僕はこの美しく生々しい質感と力強い生命力にリアリティを感じてやまない。

なぜ獣医か?転換期を振り返って

SFC3年の2月頃、就職活動開始のムードが漂う時期に、僕の獣医への決意は固まった。就職ではなく受験をしよう、と。就職も考えたが、自由なSFCの雰囲気に背中を押された。想定されるデメリットを考慮した上で、SFC4年目の1年間を大学受験に、20代後半の6年間を獣医学の勉強にささげることに決めた。メディアセンターにこもる毎日が続いた。春学期が始まるとやがてまわりは徐々に内定をもらいはじめ、4年生残りの学生生活をめいっぱい楽しんでいるように見えた。今思うと妙にストイックになっていた自分がなんだかおかしい。
 「なぜ獣医に?」
 という定番の質問に対し、そのつど僕はめんどくさくなって「実は小学生以来の獣医への夢が再燃してね」「昨今の狂牛病騒ぎを見て人間と動物との関係性を科学してみたくなった」とかいうわかりやすい嘘を並べるわけだが、実際にはそんな確固たる理由があったわけではない。生命科学という学問領域がどうのと言う前に、生命体の皮膚感覚的なリアリティに圧倒されまくり、というのがモチベーションの源泉になっている。
 そのリアリティを追求しいつも実感できるような職業に就きたい、理由をあえて言葉にするならそういうことか。診察や手術などの専門的でテクニカルな作業が一室の中で完結するというのにも魅力を感じる。また人医でなく獣医を選んだのは上記のような多様性への憧れがあったからかもしれない。以上のような「なぜか」に対する答えは勉強を続ける中で最近になってようやく見えてきたもので、つまりは後付けしたものである。獣医への方向転換を決めた時点で、決断自体ははっきりしていたがその動機はえらく曖昧だったのを覚えている。これだ、とは思ったが、それは非論理的な衝動であり、言語化するのは難しかった。動機を説明しないと納得しない人が多いため、適当なことを言う癖がついてしまった。
 デジタルの最先端といわれるSFCであるが、僕自身は最先端に身を浸した人間ではなかった。環境情報ながら履修科目は総合政策寄りのものが多く、榊原清則研究会にも1年間所属した。いずれにせよ、現在とSFCの時との学問的な接点は極めて薄い。人生どう転がるかわからない。

今後について

今後の進路の希望を動物産業の実態を交えながら簡単に説明したい。6年間の獣医学教育を経て、動物病院で見習いとして臨床経験を数年間積むつもりである。小動物臨床が現在の第一希望であるが、獣医=動物のお医者さんというのは実はあまりに一面的すぎる。実際に小動物臨床に進むのは全体の5割に満たないという。役所や一般企業に入り、動物に直接触れない獣医師もいる。犬猫などペットだけでなく家畜や競走馬などの産業動物を診るのも、医薬品開発のための動物実験をするのも、空港検疫・食肉検査などの公衆衛生に携わるのも獣医だ。活動領域は多岐に渡る。
 動物産業(動物病院、ペットショップ、関連グッズ販売業etc)はこのデフレ下においても年間1兆円(売上高ベース)の市場規模がありなお拡大傾向にある、稀少な成長産業である。背景には少子高齢化、単身世帯の増加、地域社会からの孤立、などにより動物を心の拠り所にする人が増えているという事実がある。動物を飼うことへの意識は変わり、従来の「ペット」というより「伴侶」として家族の一員のように扱うのが特徴だ。お父さんがチワワとの甘い生活を夢見るアイフルのCMは20年前なら「犬ごときにアホか」となるだろう。意識が変われば当然金のつぎ込み方も違う。人間ばりのヘアカットをして、人間ばりに服を着せ、人間より高価なものを食べさせたりする。バーバリーの犬服やエルメスの首輪が実在する。庭に鎖でつないでエサは猫まんま、というのは今や昔の話。ニヤニヤしながら極限までペットに顔を近づけ恐怖の頬ずりを迫る困ったマダムが近所に一人や二人はいるはずだ。
 とはいえ小動物の獣医は都心では供給過剰で飽和状態にあるので競争は激化していくだろうし、ペット業界はレジャー産業的な側面も持つのでどうしても不況のあおりは受けるだろう。だから小動物獣医が安定している職業とは限らない。それだけに選択肢は多く持っておきたい。
 もし独立開業するならば、競合をしのぐ確かな技術と豊富な知識、ペットを溺愛するマダムたちとのトーク術に代表されるソフト面での対応力、さらにはそれに加え病院の経営能力も必要となるだろう。臨床医であると同時にマネージャーでもあり、トータルな能力が試される。SFCで培った問題発見・問題解決の心構えと手法はそのような場で必ず役に立つと思っている。

最後に

現状は常にプロセスだと考えるようにしている。だから失敗しても前に進める。逆に成功しても現状に安住しない。僕は新1年から始めたわけだが「やりなおした」つもりはあまりない。SFCの4年間は人生の中の必要なプロセスで、その延長上に獣医学生としての今の生活がつながっている。その結節点は明確ではないけれど有機的な意味を帯びているように思える。
 「つながっている」というのは、自分の選んだ活動領域が三段論法のように全てわかりやすく論理的にリンクしているとか、全てが全て計画どおりに運んでいるとかいう意味ではない。もっと曖昧で、不安定なつながりだと思う。かたちの違う雲の群が、接近し融合しやがて大きなひとつのかたまりになるように。
 ところで、「動機を明確にしてから進まないと失敗する」というのは本当だろうか?僕の動機は確かに曖昧だった。動機が曖昧だとその分だけ自分の足跡は見えにくくなる。だが感じた衝動が本物なら迷うことはないと思う。本当にやりたいことはそう簡単には見つからないからだ。せっかくつかみかけた可能性を動機が希薄なのを理由に捨てるのはあまりにもったいない。行く先がわかってもその根拠に自信が持てないうちは、最初は曖昧なことに寛容でいい。非論理的な衝動でもかまわない、それを無理に言語化しなくてもいい。動機は後からわかることもある。
 こういう考え方はモラトリアム的と揶揄されるのかもしれない。だがそれでよいと思う。結果的にひとつのおもしろい作品ができあがれば。
 SFCはいい意味で狂った人間が多い場所だった。自分だけのベクトルを持って挑戦的に自分をプロデュースしていく刺激的な奴らがたくさんいたように思う。当欄を紹介してくれた谷中君をはじめ、幸運にもすばらしい友人達に恵まれた。彼らから得たものは計り知れない。SFCでの人間関係は大きな財産である。間違いなく今の自分をつくる大切な要素になっている。
 最後に、SFCに在学している皆さんに何か伝えるならば、以下のように集約する。
良い意味でのモラトリアムを志向すること。
時には曖昧さを受け入れる勇気をもつこと。
決断しないと、獲物は逃げてしまう。
プロフィール
剣持佑介 環境情報学部2001年卒
現在東京農工大学農学部獣医学科に在籍。
SFC時代は榊原清則研究会、dance unit W+I&Sに所属。
kenmochi@2001.jukuin.keio.ac.jp