14日(土)、「身体論」(加藤貴昭環境情報学部准教授担当)にてプロ棋士の羽生善治氏が講演を行った。講義内容は直感や大局観など、将棋を通して培った能力について。将棋を指す時のみならず、学業や仕事にも役立つヒントが満載の濃い内容だった。


 休日に行われた補講にも関わらず、Ω11の教室がほぼ満員になるほどの大入りだった。また、来場者の中には羽生棋士のファンと思われる年配者の姿も散見され、授業というよりも講演会のような雰囲気だった。

 羽生棋士は、今棋界で最も多くの注目を集めるプロ棋士。中学3年生時にプロ入りし、19歳で初タイトルを勝ち取ると、1996年には7つのタイトルを独占した。現在までの通算タイトル獲得数は歴代1位で、名実共にトップ棋士と言える存在だ。

 羽生棋士が登壇すると、教室では割れんばかりの拍手が起こった。逆に、羽生棋士は来場者の盛り上がりとは対照的な飄々とした語り口で、冷静な眼差しだった。


直感と大局観


 将棋の一手を考える際、必要となる能力として「読み」「直感」「大局観」の3つがあると、羽生棋士は語った。
 若い棋士は、経験がまだ浅いため、平均して80個程度ある選択肢を一つ一つ読んでいる(シミュレートしている)。しかし、年数や経験を積むと「直感」で即座に2-3手に絞ることが出来るようになるというのだ。
 この時の感覚は、写真撮影の際のピント合わせに似ていると羽生棋士は言う。様々なものがぼんやりと見えている状態から、自分が撮影したいものに的を絞って行くような感覚だそうだ。
 棋界には、「長考に好手無し」という言葉がある。長時間を費やせば何百手もの手を読むことができるが、考えすぎると却って不安や混乱を招き、冷静な思考を失ってしまうことも多い。そこでうまく直感を使い、手を絞ることが大切になるとのこと。
 しかしながら、直感も万能ではないと、羽生棋士は続ける。直感を使って考えられる手を絞ったとしても、すぐに「数の爆発」という壁にぶつかってしまう。例えば、直感で次の一手の候補を3手に絞ったとしても、その3手からそれぞれ3手ずつ次の手の候補が生まれてしまう。これを続けると、最終的には6万手もの手を「読む」必要が出てくるという。それには膨大な時間がかかるため、現実的ではない。
 そこで必要になるのが、「大局観」だ。大局観とは、これから先の方針や戦略を大枠で捉える力のことを指す。よく、「鳥瞰する」「俯瞰する」という表現が使われるが、これは大局観を用いることと同じ意味である。
 棋士として数多くの対局をこなしていくと、大局観を用いて対局の全体的な流れを先に予測することが出来るようになる。即ち、未来をある程度先読みすることが出来るようになるのだ。これによって、読むべき手を大幅に絞ることができる。
 また、直感や大局観は、自分の思考や行動から無駄なものや邪魔なものを取り除いて行く、引き算のようなものだと羽生棋士は言う。一流のアスリートが頭で考える間も無く、自然に無駄の無い動きが出来るのも、直感や大局観が成せる業だとのこと。「無駄なものや邪魔なものを取り除くことで、本当に必要な思考に集中することができる」、と羽生棋士は力強く語り、直感と大局観の話を締めくくった。

記憶力


 棋士にとって、記憶力はとても大切なものだと羽生棋士は語る。一般的に棋士は、対局への対策に生かすため、何百局分にものぼる棋符を記憶しているそうだ。
 それほど多くの棋符を覚えるのは大変なのではないかとよく驚かれるが、実はそれほど難しいものではないという。ポイントは、それぞれの棋符に潜む共通点だ。
 どの音楽にもイントロやサビがあるように、棋符にも法則性や一貫性があるという。そのため、私たちがカラオケのレパートリーを増やしていくような感覚で、棋符を記憶に蓄積して行くことができるのだ。
 羽生棋士は過去に、将棋のルールを覚えたての、幼稚園児同士の対局を解説したことがあるそうだ。続けざまに数回の対局を見たが、将棋のセオリーを理解していない彼らの対局は「カオスそのもの」。このような棋符の一貫性に則っていない対局を細かく記憶するのは非常に難しいという。
 また、棋符を覚える際には、長い年月を経た後でも正確に思い出せることが大切だという。一度覚えた情報はいつ必要になるか分からない。もし、とある棋符の情報が、記憶して5年以上経ってから急に必要になったとしても、一手一手を正確に思い出せなければならない。
 記憶を深く定着させるためには、五感を使うことが大切だと羽生棋士は考えているそうだ。人間は、視覚で得た情報を記憶することに長けている。しかし、重要な棋符を覚える際には、誰かに話したり、実際に盤と駒を使って状況を再現したりすることで、視覚以外の感覚も記憶に染み付けるようにしているという。
 また、全体の状況や戦況を深く理解していれば、思い出せることが多いと、羽生棋士は続ける。それぞれの手を記憶しているだけではなく、その手が対局全体の中でどのような役割を果たしたのか、最終的にどちらが勝利したのか、など周辺の状況まで理解した上での記憶は、長い年月を経た後でも思い出しやすいそうだ。
 

八面玲瓏


 「八面玲瓏」という言葉を、羽生棋士は色紙などにも書くほど大切にしている。風光明媚な景色を見るときのように、何のわだかまりも無く、心の中がまっさらで綺麗な様子を指す。この気持ちが、対局時に大切になるという。
 大きな決断をする時に、感情のわだかまりがあると、それに気を取られてしまう。そういった判断力を邪魔する心理的障害を全て排除できた状態を「八面玲瓏」と言い、対局中の棋士にとって理想の心境だという。
 しかし、人間には喜怒哀楽の感情があり、そのような心境を常に保つことは難しい。現実的には様々な感情がうごめく中で、正しい決断をすることが大切だろう。
 最後には、羽生棋士が中国に行った際、中国語で「八面玲瓏」は「八方美人」と言う意味になるため同行した通訳にたしなめられたエピソードを語り、会場の笑いを誘った。

【羽生善治氏・略歴】


 1970年埼玉県出身。85年、15歳の若さでプロに昇格し、史上3人目の中学生棋士となる。89年竜王のタイトルを獲得し、以来様々なタイトルを獲得。96年には史上始めて将棋の主要7タイトル(名人・棋聖・王位・王座・竜王・王将・棋王)を総なめにし、七冠達成。現在までにその主要タイトルに通算81期在位し、歴代単独1位である。現在は棋聖・王位の2冠。盤面と相手の表情を同時に見る「羽生にらみ」と呼ばれるしぐさが特徴的。