ぼくがフランス語を学ぶわけ フランス語研究室倉舘健一講師 【後編】
外国語教育に注目が集まるいま、外国語教育や外国語との関わり方について考える新企画「Languages」。第1弾はフランス語研究室の倉舘健一講師に話を聞いた。今回は後編。倉舘講師が教師になった理由、外国語を学んだ理由に迫る。
怒っちゃったから教師に
大学はフランス語を教えてくれなかった
最初のきっかけは、大学生になったときに途方に暮れちゃったから。もともとバカみたいに小説が好きで、小説家にでもなったろかと慶應義塾大学文学部の仏文科に入ったのだけど、そこで先生に「君はフランス語もできないのに仏文科に来たのかね」と言われてしまった。そのころの仏文科は割とフランス語をやってきた人が志をもって来るところで、ぼくはそれを知らずに入ってしまったんだよ。先生もなんだか遠巻きに批評めいたことを言うだけで教えてくれない。まぁそうなら仕方がない。
しょうがないから、アテネ・フランセ(外国語学校・東京都千代田区)に通って勉強しましたよ。そういえば、國枝さん(國枝孝弘総合政策学部教授)や山根さん(山根祐佳総合政策学部講師)とはそこで初めて会ったんだっけ。
だから、大学の外国語教育に対して個人的に恨みがあるんだよね。「なんなんじゃ、こりゃ?」という恨みが。まぁ、貧乏人のひがみか甘さなんですかね。
外国語教育をどうにかしてやろう
もうひとつのきっかけは、修士のときにSFCにTAとして来たこと。当時かなり貧乏で、指導教授に「貧乏です…」と泣きついたら、「藤沢のキャンパスだと月7万円も貰えるらしい」と言われた。「7万円も貰えるなら藤沢だろうがどこでも行きます!」と半ば金目当てでSFCに来た。でも、来てみたら月7万は間違いで、本当は半年で7万円だった。ガーン。交通費も出なかったよ。しかも、めちゃくちゃ働かされた。そんなSFCでのTAがきっかけで、ぼくは教える側として教育に関わり始めた。
そのとき、自分のなかにある、大学での外国語教育への恨みがもたげてきたのよ。学生のころに感じた「もっとやれることがあるはずだ」という思いが。「外国語教育をどうにかしてやろう」と思ってしまった。
やっぱり人間怒ったらダメね。怒らないうちに人生乗り切るに限る。いろいろやりたいことはあったけど、怒った勢いで外国語教師になって、グズグズ20年が経ってしまった。何しろこの業界、ウソが多過ぎるし、近代人の巣窟って感じ。重すぎるんだよ、背負わなきゃならない問題が。あ〜あ、という悔恨が。
倉舘健一のフランス・倉舘健一のフランス語
異化の感覚を追って
そういうことが積み重なって、前編で言ったような異種性を基本にする授業をやっている。教育について考えるようになったのはSFCに来てからだけど、異種性とか自己を揺るがすというテーマは自分のなかにずっとあるものだった。
フランスはこういう国で、こういう文化で、という話をするのがあまり好きじゃない。というか、どうでもいい。そう言うのはぼくらの前の世代までの趣味で、ぼくも少しかすっているぐらいかな? もうそんな時代じゃないし、そんなオリンピックめいたナショナルイメージなんて追っかけてもなんの得にもなんない。もうそんな外から眺めているだけでは済まされない問題。グローバル化ってことかもね。
そういう前提で話をすると、もともと変わるのが好きなのよ。自我が溶けてしまって、全く別のものになるような感覚が。だから、ずっとそういう感覚を追っかけていて、フランス語を始めたのもそのためだった。
ヒマなフランス・忙しい日本
異質なものになるためにしたことは、日本人としての自分と性質的に正反対の文化に触れることだった。そして、自分にとってそれは地中海文化だった。地中海のフランス文化は、なんというか中庸の文化で、ラテン的なお気楽さや重層性と、アングロサクソンやゲルマン的なストイックさの間にあるような、あいまいで柔軟ななかにも手堅さがある感じがするんだよね。だから、フランス語やフランス文化をとっかかりに地中海文化やヨーロッパ性を自分のものにできるんじゃないかと思った。まあ異質なものへのあこがれという意味では、本当はフランス語だけじゃなくて他の言語や文化も勉強するつもりだったんだけどね。結局、ほとんどフランス語どまりで悔しいわ。
地中海世界の特徴はヒマなところ。日本だと、地震だ、津波だ、噴火だ、台風だって自然災害が多いでしょ。こんな大変なところはほかにないんだよ、世界中に。地中海ではさ、一年中太陽が照っていて、天気もあんまり変わらない。
そういう場所の考え方というのは、もう日本と全然違う。仕事じゃなくてバカンスが生活の基本って感じ。道を歩いているとフラフラと女のあとについて行っちゃうような人ばかり。そっちの方がなにしろ大事なのよ。仕事も勉強も、やりたい人がやりたいときにだけやっている。だからこのグローバル化時代、ギリシャみたいに財政破綻する国も出てくるわけだけど、それが罪だとか言うのは乱暴すぎるわけ。フランスも確かにその気質を受け継いでいて、勤勉が美徳と言われて育った身にはハラのタツこと、クヤシイこと! 葛藤だよ。
自分をつくりかえてくれる文化
ぼくがフランス語を勉強していたのは、日本の経済成長が進んで丁度バブルが弾けたころ。だから、留学しているとき、大教室にひとり日本人のぼくがいるのを知って、授業中1時間半ずっと日本人は最悪、バカなエコノミック・アニマルだって悪態ついた先生がいた。みんな少しニヤけながらチラチラこちらを窺っている。ひどい話だよね。でも、それもおもしろかった。勤勉さとか機能性とかを馬鹿にする感覚って、そのころの日本には珍しかったからね。
ぼくにとって、自分を相対化するための異種性がフランス文化だった。自分を違ったところから見せてくれるもの。自分を外から見せてくれるような感じかな? 自分の常識、日本の常識をひっくり返して、生き方や立ち居振る舞いをもう一度チェックして、そしてつくり変えてしまうもの。
「変化していくものが好きなんだ」
文化が違うということは、当たり前だけど、言語の成り立ちも全然違う。それも、フランス語が性に合っていると感じる理由。日本語との対応という点ではまだまだ開拓の余地があるんだよ。英語だと研究者がいっぱいいるし、英語圏の文化もはいて捨てるほど輸入されてしまっているから、日本語との対応という意味ではかなり進んでいる。日本語と英語の関係はかなり固定化されてしまっているのよ。
一方で、フランス語は日本語とまだ馴染みが薄い。いや、そもそも馴染まないのかもしれない。これはぼくがフランス語の好きなところのひとつ。固定化していないから、変なものとたくさん出会えるし、そうするとフランス語も日本語も、また自分もその間でどんどん変化していく。さっきから言っている通り、そういうのが好きなんだ。
アクティブなものを信じる
日本語との関係を別にしてもフランス語はおもしろい。というのは、はっきりしていない言葉だから、その都度、状況や文脈を踏まえて解釈しなくてはいけない言語なんだよね。概念的であいまいな言葉が多い。具体的なものなら訳すのも簡単だけど、そういうぼんやりした言葉はそうはいかない。その単語の成り立ちや背景を一つひとつ解きほぐしていかないといけないし、文脈によって意味が変わっちゃう。
つまり、フランス語は意味を固定化しにくい言語なんだよ。その都度、新しい言葉の組み合わせが立ち現れる言語で、動き続けるアクティブなものを核として強く信じている、あるいはそうでしかありえなかった言語なんだと思う。そう言う意味では日本語も決して遠くはないんだろうけど。
学ぶ意義は自分たちでつくれ
誰も学ぶ意義を教えてくれない
でも、ひとつ思うことがある。ぼくたち教師が、学生に学ぶ意味をこれ見よがしに示しえる時代ではなくなったんじゃないかな? 自分たちで学ぶ意味をつくっていく時代になった気がする。外国語がリアルになっちゃったんだな。
リアルなものって、個々にバラバラだし、刻々と変わっていくから教師がどうのこうのと捉えられるもんじゃもはやないんだよね。もし教師であるかぎりそうするのが常識という上司がいてしぶしぶ甘んじるとしても、ぼくは大きな罪や暴力に苛まれるものを感じちゃってね、ダメ。きみら一人ひとりの冒険を邪魔しないことだけは、この仕事の大前提だろうと思っている。だから研究して正統性を示さざるを得ないのよ。本当は当たり前のことなんだろうにね。
先生は使って頂戴。意味については自分で見つけてナンボでしょ、ってこと。世間には売り物としての外国語が流布しているけど、ありゃどう考えても敗戦のトラウマのなせる共犯的な想像の産物。それもそろそろ世代も変わって様子が変わっていくはずだよ。
浅はかな夢から離れて
外国語の習得はもっともっとタフなものだし、豊かなもの。そこのところの認識を誤ると、外国語能力というのは完全に頭打ち。ただずっと、TOEICやTOEFLやCEFRやらの結果に振り回されて、点数で一喜一憂するだけでね。そういう今ある商業的な学習観から離れて、是が非でも自分自身で価値をつくってほしい。外国語が出来るようになるのどうのという以前に、それじゃ人生つまらないし、浅ましすぎるわな。みんながみんなこんなじゃ亡国もいいところだし、結局長続きはしないのよ。丁度きみらが背負うころに破綻するね。
やめようよ、そんな浅はかな夢に加担するの。もっとたくましく、波瀾万丈、危機にワクワクするぐらいで人生を楽しもうよ。いつでもなんでも内緒で助けてあげちゃうからさ。そうじゃなきゃ、誰も本気で応援する気にはならんわな。
学ぶまえに考えて
もちろん既存の価値観の外に出るのは大変。「優秀」なひとほどそうなんよ。でも、SFCには語学に限らずいろんな分野の先生が、決まりきった価値観の外に出ることを応援しているでしょ。学部長からしてそういうことを言っているところはあまりないし、とても珍しい。だからさ、ここで頑張って自分が学ぶ意味みたいなのを探してみればいいんじゃないかな?
語学の向き不向きだ、成績の優劣だなんて、ぶっちゃけ、クソ喰らえでいいんだよ。必要があれば、自ずとそれなりにできるようになる。言葉ってそういう風にできているんだよ。ぼくが言いたいのはそういうこと。必要もないのにやらんでよろしい。さわって、感じて、考えるのが先。SFCの外国語教育デザインのルーツや周辺の文脈をたどると納得するかもよ。以下の鼎談はおすすめ。Bon voyage!
YouTube: 京都大学 特別シンポジウム「グローバル人材と日本語」-日本の国際化を担う人材が磨くべき言語能力とは-
変化を愛すフランス語と倉舘講師。「異種性に出会いたいだけだから、フランス語をやったのはたまたま」。そう語る倉舘講師だが、その出会いは必然だったように見える。
「Languages」では、そんな人と外国語の出会いや関係を追っていく。