「福島出身じゃない私ができること」思い出の写真を集めたフォトアルバムを180ヶ所に。廣瀬みおさん(総3)インタビュー
「福島出身じゃない、横浜在住の私だからこそできることがある」と福島の写真をモザイクアートとしてまとめる廣瀬みおさん(総3)。妹の廣瀬はるさんと共に展示を行うだけでなく、自費でフォト・アルバムも作成してきた。
東日本大震災から12年経った今、廣瀬さんがこれまで4年間の活動から考えたことを「辛かった」とこぼしつつも、「福島って星が綺麗なんだよね」と、福島愛たっぷりに笑顔で語ってくれた。
葬儀参列で福島を訪れた直後の「3.11」
—— 横浜出身の廣瀬さんが活動を始めたきっかけは何でしたか?
関わりたいと思ったきっかけは父がいわき市出身だったということ。そして、福島で祖母の葬儀に参列し、横浜に帰った直後に「3.11」が起きたことです。ものすごい衝撃で、あの時偶然いなかっただけで、と色々考えました。
親戚が被災して避難生活を続けているのに、横浜にいる私たちの生活はほとんど変わっていない。都心に住んでいたからこそ強くギャップを感じ、当時は何もできなかったものの「何かしたい」という思いがすごくありました。
「偽善だ」とも言われた経験 「活動している」と言えるようになるまで
—— 活動を具体的に行おうと思ったきっかけはありますか?
震災後にたまたま、双葉郡のふたば未来学園という学校を通った際、学校の目の前で月1回のマルシェが行われていました。当時高校生だった私は、福島の高校生が「僕が作りました」と売る姿に「同世代が街のためにこんなにも頑張っているんだ」と感動し、「私も東京で福島の商品を販売したい」とひらめきました。
マルシェを行なっていた高校生の通う学校に電話をかけたところ「1高校生から電話がかかってきたよ!?」と(笑)。最初は信頼関係がなかったので大変でしたが、ある一人の先生が私たちの思いを聞いてくれて。高校2年の夏から大学1年まで2年間で10-15回商品を福島から送っていただいて、東京で販売し、利益の分を学校に「また使ってください」と送ることを繰り返しました。
メールやFacebook、手紙と、もう使えるものは全部使って、赤字は自己負担になるのですが、なぜかビビッと「これはいける! 」と思いました。大学1年の時に藤沢の商工会議所に販売会をさせてもらう前までは30ヶ所断られたこともありました。個人でやれることは厳しかったですが、直接話したり電話したり、1年かけてやっと開催させてもらえました。
—— 想像以上の大変さですね……。
当時はすごく葛藤がありました。「福島じゃないのに」「被災してないのに」と言われることに、自問自答しながら活動していました。福島に行っても「東京から来た人が何もできない」と言われたり、「福島で何かしたいです」と話しても「親のお金で (ここまで) 来たんだろ」と言われることもありました。
一方で自分の高校でも、できたらいいなという思いでやっているのに「なんでボランティアするんだよ」とか「偽善だよ」とも言われて。もう挟み撃ちというか、どっちにも辛くて。もちろん応援してくれる子もいましたが、学校では「福島で活動している」と言えませんでした。
でも、福島の人に「打ち上げ花火的なことはよくやってくれているけど一回関わっても終わりの人が多いから、福島のことを思い続けてくれたり、発信し続けてくれたり、川の水のようにやってほしい」と言っていただいて。何か言われたとしても「自分がいいな、正しいな」と思っている活動は堂々とやろうと思うことができました。
コロナ禍に、1日8枚からスタートしたモザイクアート
—— コロナ禍での活動についても教えてください。
コロナ禍だからこそできることを探した時に、福島に行かなくても、遠くにいてもみんなが参加できるプロジェクトにしたいなと思い、伝えられる手段として「写真がいい! 」とひらめきました。写真は、文化、言語を超えて発信できる強みを持っていると思います。「福島の思い出」「福島の魅力」「伝えたい福島」のテーマで募集し、最終的に3000枚の写真が集まり、添えられたメッセージと共にモザイクアートを行いました。
元々は「2020復興オリンピック」を意識して2020年3月11日に間に合わせるよう広報をしましたが、コロナ禍でふたば未来学園に行けなかったからこそ2021年に変更しました。完成予定の半年前くらいからチラシを送って高校生が近くの人に配ってくれたり、フォームやメッセージ、あるいはInstagramを通して「こんな写真撮ったよ」と送ってくれたり。結果的には「第2弾を待っています」という声も頂けて嬉しいです。
ひとつのモザイクアートをつくるには数千枚の写真が必要になるのですが、最初の頃集まったのは1日たったの8枚でした。でも「企画に賛同してくれる人は絶対にいる」と続けたところ、これまでの活動で関わった人から輪が広がり、ご縁だと感じています。メイン画像も送ってくださった写真の1つで「住民を待っているように咲いた桜」と双葉郡の (帰還困難区域) 解除になった年の桜を頂きました。
展示の仕方を色々と考えた時に、届けてくれた人のお名前と、その人が届けてくれたメッセージをそのまま発信しようと思いました。実は、1回表記を間違えてしまって長文のお叱りのメッセージをいただき、これまでの冊子を回収し、やり直したこともありました。大変だったけれど、本当に気持ちを込めて送ってくれたんだと感じました。
—— 展示を通して感じたことはありますか?
フォトモザイクアートは最初、気づいてもらえにくいんです。だからこそ足を止めて見てくれる人や、一枚一枚冊子をめくってくれる人がいたことも嬉しかったです。時間や手間をかけた分だけ、見てくれる人がいたと感じています。
全部で18ヶ所展示を開催してきましたが、海外の人にも届けるべく、韓国やコロンビアを含む180ヶ所に1.8m×1.3mの大きなポスターとフォトブックを届けました。写真を通じて、私たちが行けない地域にも届くし、「ああいいな、福島行きたいな」って思ってくれたら嬉しいです。いろんな国の人が集まる場所である成田空港や福島空港で飾ってもらえて、これからも常に東京か福島のどこかで飾れたら嬉しいなと思います。
展示会では「福島の元気を世界に、世界の思いを福島に」をテーマに、木の葉っぱに模した感想のコメントを手書きで書いていただき、メッセージを貼ってもらっていました。感想がなる木としてどんどん葉っぱを描いてもらい、手作り感がある展示になりました。
節目としては捉えていない 今も「ただの1日」
—— 10年の節目を超えて感じていることはありますか?
10年目を迎えた2021年に、社会的にも注目が高まり展示会を開くことができましたが、節目はある意味、過ぎた瞬間に一段と離れてしまう気がします。被災地から離れている私たちにとっては節目でも、活動をしていると福島の人たちは本当に毎日、今も「ただの1日」だからこそ私も節目としては捉えていません。
—— SFCでの学びはどのように生かされていると感じますか?
信頼関係かなと思います。秋山研と大木研に所属させていただいていますが、リスクマネジメントや手段、いろんな人に向けた信頼関係の築き方など、フィールド研究を終えてから1分1秒でも早くお礼を伝えること。時間がかかっても必ず報告書やレポートで恩返しができるように意識しています。
大きなプロジェクトでなくても、小さなことにどれだけ愛を込めるか
—— 活動を続けて、嬉しかったことはありますか?
4年間続けてきてよかったと思っています。いつも地道にやっていることだからこそ、ギャラリーのために福島にわざわざきてくれた人がいたりとか、高校の友達がこっそり見にきてメッセージだけ残してくれたりとか。本当に「ありがとう」でいっぱいです。
周りのSFC生を見渡すと大きいプロジェクトをしている人が多くて、もちろんすごいなと思うけれど、私には小さなことにどれだけ心を込めたり、愛を込めたりできるかという方が合っているんです。「自分の中での100%でいい」と思ってから気が楽になりました。
発信系の活動は福島のためになっているのか不安になることも多いのですが「福島にいつか帰ってきます」とか、「展示を見て福島に帰りたくなりました」という言葉も頂けて「ああよかったなあ」と思います。展示させてくれているところを今も探しているし、いつかSFCで飾りたいです。
自己満足かどうかは受け取る人によって違うから、福島に寄り添うことも、自分ができる精一杯をして、怒られちゃった時にはしっかり謝って、見てくれる人には「ありがとう」と心を込めて伝えていく。それを続けていきたいと思っています。
最初は想像していなかったけれど、関わってくれた人が増えていくにつれて繋がりが財産になったと思います。今は少し、活動が福島と離れてしまっていますが、最終的には福島に帰りたいですね。
—— 素敵なお話、ありがとうございました!
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