あなたは芸術家というと、どんなイメージを持ちますか。天才とか変人とか、自分とはぜんぜん違う世界の住人だと思っていませんか。今回、田島悠史(政・メ)という方にインタビューをしました。彼は義塾文学部からSFCに転部、修士は芸術家としてのステップアップ目的に東京芸術大学へ進学。しかし、博士課程でSFCに再入学。現在はMMMというアートイベントやA&Tなどの団体を組織しています。いまいちど考えてみてください。芸術とはなにか。芸術家になるというのはどういうことか。等身大の彼の言葉から、その答えのカケラが見つかればいいなと、僕は思います。

芸大への憧れ

 文学部から転部して、SFCでの学部4年間、僕はずっとメディアアートをつくっていました。でもSFCでものづくりをしていたとき、どうしても細部で雑な印象を受けていました。コンセプトとして練られていないというか。今とか結構よくなってるとは思いますが、やはりSFCではスキル的なものに限界を感じていました。僕は学部時代からSFC内でやるというより外部の作家さん達とやっていたので、SFCと美大の差を実感していました。『つくる技術』を得ようと思い、東京芸大への進学を決めました。

芸大での違和感

 芸大ではずっと、作品づくりの人と関わっていられました。こっちでも外部で活動することが多くて、バイトでアートライターもやっていたし、作品展も年10回近くやりました。そこではかなり「見る目」を養うことができたと思います。自分として、成長できているとも感じていました。でも、それらは芸大ではまったく評価されませんでした。芸大では『行動すること』自体はまったくといっていいほど評価されないんです。『行動の結果』が適当であるかが求められます。評価されないフラストレーションはありましたね。本当のことを言うと、根本的に芸大の雰囲気が僕には合わなかったんです。僕にとって芸大の環境は結構シビアで、実はやりづらかった。

 僕は作品つくるところで、完全に周りに負けているとは思いませんでした。でも、訓練されてきた美大出身者に一般大学を出た僕では、作品をつくるスピードや丁寧に作り上げるという点ではもう、絶対勝てない。それに、芸大での作品づくりは基本、先生に言われたものをつくるというやり方で、なかなか僕には合いませんでした。人に言われて作品をつくるのはすごい嫌いで、それなら自分ひとりでやっちゃえっていうタイプなので(笑)。自分がやってきたものに対して、あとで評価してもらう方が性に合っていました。加えて芸大は、『先生の言うこと聞いて、制作費は自分で出して、それでいいもの作れたら幸せ』という世界でした。お金持ちの芸大生なら楽しいでしょうが、制作資金を自分で稼いでる僕にとって、それは受け入れにくい考え方でした。お金がない人はもう、芸術をあきらめざるえない状況なんだなぁと感じていました。

芸術をあきらめること

 実際、僕は芸大で、芸術をあきらめる人達を見てきました。芸術は実力だけじゃない世界だし、卒業したら制作する場所も、展示する場所もないんです。すごい才能を持っている人でも、あきらめてしまうことはあります。特にメディアアートは市場が小さい。しかも複製しづらいため、売るのが難しい。市場の9割以上が平面作品で、メディアアートを含む『その他の芸術』は1パーセント前後という現状。だから、メディアアーティストは社会に出たら、WEB関係の仕事に就いて作家業をあきらめるという人が多い。ここに強い問題意識を持った僕は、『コンピュータアートの社会への適用を考える』を博士課程の出願でテーマに掲げ、SFCに戻ることを決意しました。

SFCでの行動 MMMの立ち上げ

 芸大で行動をとどめられていたぶん、SFCでは『行動すること』に重点をおきました。芸術をあきらめた人達の中でも、メディアアーティストにフォーカスし、どうやったら彼らをいかすことができるのか、いかし続けることができるかを考えました。

 そして1年目で、『みなとメディアミュージアム』(通称MMM)というアートイベントを立ち上げました。このイベントでは、8月7日から31日の間、茨城県ひたちなか海浜鉄道湊線の駅構内と那珂湊地区の商店街などにおける映像作品・メディアアート作品の展示や地域住民とのワークショップを約1ヶ月行い、まちに人を集めるというものです。

 当初は『芸大でアートをあきらめた人達を救う場所を請け負う場』として構想されていたMMMも、『地域活性化』を研究するSFCの後輩と始めたことで『地域活性化』の色が強くなっていきました。その後輩からは地域の人との交渉の仕方、つきあい方を学ぶことができ、今思うと、アート系の僕だけではMMMは成立できなかったと思います。そういうふうに、他分野の人と協力して何かできるっていうのは、SFCだからこそですね。

MMMは20年、30年続けさせる

 年々、規模を拡大しながら、3年目を迎えたMMMは、多様なモチベーションをもった23人のメンバーで構成されています。サークル感覚で楽しそうだからという理由で入ってくる人もいれば、まちづくりに興味があって参加する人もいる。僕はその「さまざま感」が実は好きで、MMMはそうあるべきだと思うし、そうあることが健全じゃないのかなって。彼らのバラバラのベクトルを1つにまとめるのが僕の役割だと考えています。

 僕はMMMには間違いなく、20年、30年続けていって欲しいと考えています。そのためのシステムづくりもしていくつもり。今年でMMMも3年目を迎え、地域側からの期待や協力が増えてきています。それはすごく嬉しく思います。しかしそれでも、まだ団体として弱い部分はある。今年は芸術祭アーカイブ発表や定期報告会を開き、年中、活動していきたいです。将来的には、慶應だけで維持するのは難しいと思います。だから2、3年で、筑波大や茨城大などの地域の学生をうまく巻き込んで、もっと地域主体の団体にしたいです。

芸術を利用する。許されない考え

 『芸術を何かのために利用する』っていう考え方を、許さないと思う人が多数いることは理解しています。でも、その一方で最近そういうももあっていいんじゃないかって思い始めているんです。『アートで地域活性化』という側面があってもいいんじゃないかって。今、美術館にはできないことが、地域系アートイベントでできるのではないかと言われ始めています。地域系アートイベントは美術の知識のない人達にさらされることで、美術館だとどうしても起こりえない出会いが起こる。そこに僕は面白さを感じる。MMMのような地域系アートイベントがこれからもっと必要になってくると考えています。

 MMMでの活動は芸大では絶対できないだろうと思います。絶対に無理。やれる想像がつかない。それに、基本的に芸大である程度認められている作家さんは、こういうイベントをあんまり好みません。彼らは場所を与えられているから、あんまりこっちには来ない。むしろ俺が芸大の博士課程で『アートイベントやりまーす』なんていったら、批判とか、強い反発を直接あびる気がする。だけど、今は遠いからその反発から逃げれてる(笑)。芸大でやったら『あれ、ないよ』ってことは絶対言われると思う。そういう状況は簡単に想像できます。その点、SFCにもどってきたのは本当によかったと思います。

芸術家 田島悠史は、どこにいるか

 今は、芸大の時と比べて、断然アーティストとしてよりもマネージメント側の仕事をしています。その中で、僕は代表というポジションにこだわりません。MMMの代表は僕ではなく、SFC2年生が務めています。リーダーとして全部決めてしまうのではなく、団体の部分部分に目をつけ面白いことをやって、結果的に質をあげていくやり方が良いと思うんです。その方が、下のスタッフが意見を言いやすくなり、不満が出にくい状況がつくれると思う。

 僕はMMMを含めた今までの経験から、どちらかと言えば、作るよりマネージメントの方が適性あると分かったんです。その点で他のアーティストにはできないことができるし、そこを使わなくちゃもったいないと思います。だから僕の今の理想は作る側6、マネージメント4の6:4ですね。

 でも、もう少ししたら、5:5ぐらいに両立していきたい。僕がアーティストとしてうまくいくとしたら、きっと人とは違うやり方なんですよね。それが、今は作家業とマネージメント業を融合させた何かなのだと思っています。そして最終的には、この2つがうまく融合して1つの形になればいいなって。今、僕の頭の中では作家業とマネージメント業は分かれてしまっているけど、この2つが分かれない瞬間を手に入れたいんです。僕は芸術をあきらめていない。なので最終的には芸術家として喰っていきたいと思っています。50歳くらいまでには。そう思うと、まだまだ道半ばですね。