SFCの教員のなかにはSFCの卒業生も多い。新連載「教壇の先輩」では、SFC出身の教員に卒業生・教育者という2つの立場から、当時のSFC生活やこれからのSFCのあり方について聞いていく。第1回は、SFC2期生である廣瀬陽子総合政策学部准教授のインタビューをお届けする。前編はSFC生時代を振り返ってもらった。

「東大を受けるつもりだった」―SFCに入学するまで

— SFCに入学するまでの経緯を教えてください。

私は、1991年、2期生としてSFCにAO入試で入学し、95年に卒業しました。といっても、最初からSFCに入学することを考えていたわけではありません。
 私の母は、いわゆる「偏差値至上主義」に非常に反発していましたが、私自身は、高校2年生のころは特に目的意識もなく、とりあえず偏差値の高い大学に入ればいいやという程度でした。一応、模試でA判定が出ていたので、自分はすっかり東大(東京大学)を受けるつもりでした。
 しかし、母に「別に東大でもいいけれど、何のために行くの? 東大で何ができるの? 官僚にでもなるの?」と言われました。それで、自分が大学で何をしたいのかを何も考えていないことに気づきます。偏差値だけで大学を決めてしまってよいのか、それで学業を楽しめるのか、と疑問に思うようになりました。
 それからは、自分が何を勉強したいのかを明確にし、それ(国際関係学)が勉強できる大学はどこかという観点で進学先を決めるようになりました。いろいろな大学のパンフレットを取り寄せました。そのとき、はじめてSFCのことを知り、ここだったら最先端の研究ができるんじゃないかと期待して、受験することに決めました。
 高校では、生徒会執行部やボランティアなど様々な課外活動をしていたので、AO入試で受験しました。AO入試では、そのような課外活動のほか、成績(評定平均4.9)や所属していた卓球部での活動もアピールしました。
 当時は校舎もまだ完成しておらず、こんなところでちゃんと勉強ができるのだろうかと少し不安になりながら試験会場に向かったのを、今でもよく覚えています。
 

今とはまったく違ったSFC―大学での生活

— 当時と今のSFCの様子では、どのような違いがありますか?

私が入学したころは、まだ体育館もありませんでした。完成したのはその秋ごろだったと思います。では、当時は体育の授業をどうしていたのかというと、今でいう生協食堂のノース側を利用していたんです。あそこの扉はガラス張りになっていますよね。だから、反対のサウス側から体育をしている様子が見られるので、すごく嫌でした(笑)。ほかにも、θ館もまだなかったし、大学院がまだできていなかった(政・メ、1994年設置)ので、当然大学院棟(τ館)もない。現在とは全然違う様子でしたね。
 

— 在学時に所属していた研究会を教えてください。

私が所属していたのは、富永健一先生(1992-97年 環境情報学部教授、現 東京大学名誉教授)の社会学の研究会(以下、富永研)です。今のカリキュラムでは同時に2つの研究会に入ることができます(1年生は1つのみ)が、当時は1つだけで、しかも3年生からでした。
 研究会のほかに熱心に受講していたのが、梅垣理郎先生(総合政策学部教授、比較近代化論、国際政治史)をはじめ、故・小島朋之先生(1991-2008年 総合政策学部教授、2001-07年 同学部長・政メ研究科長、中国政治)、藤井隆先生(1992-95年 総合政策学部教授、経済政策)や金安岩男先生(1990-94 環境情報学部助教授、1994-2012年 同教授、人文地理学)の授業です。小島先生はアドバイザリー・グループのアドバイザー(07学則以降のメンターにあたる)でいらっしゃいましたし、どの先生方にも研究のことのみならず、進路相談など、いろいろと教えていただきました。
 

— 当時は社会学の研究会でしたか。廣瀬准教授の専門は国際関係学ですが、当時は社会学に興味があったのですか?

いいえ、SFCに入学する前から国際関係学を学びたいと思っていました。なぜ社会学の研究会に入っていたかと言うと、社会学の「伝播」(文化などが伝わり広まること)という概念に興味を持ったからです。
 私が高校生だったころに心を揺さぶられたのが、ペレストロイカ(1980年代後半、旧ソ連における政治改革運動)と東欧革命(1989年、東欧において共産主義国家が連続的に崩壊した民主化革命)です。特に東欧革命は、「一国で起きた革命がドミノ倒しのように次々とほかの国に波及していく」ことがすごい! と強く感じました。それで、当時高校生なりにいろいろ本を読んで勉強していたとき、そのような「伝播」という概念を知りました。そのまま魅了され、伝播について大学で深く学びたいと思ったんです。
 ちなみに、ちょうどそのとき、富永先生がSFCに着任されるということを知り、それがSFCへの入学を決意する決め手にもなりました。
 富永研に入ってからは、自分が勉強したいと思っていた伝播よりも、社会システム理論の勉強がメインで、ハーバマス(独哲学者、1929年-)、ルーマン(独社会学者、1927-98年)、パーソンズ(米社会学者、1902-79年)の著作などを読んでいました。そこで身につけた知識は、国際政治などを分析する上でも非常に役に立っています。また、富永研と並行して梅垣先生のところにもちょこちょこお邪魔して、自分なりに国際政治の理論と現実について学んでいました。
 

研究者になるか国際公務員になるか―大学院への進学

— 研究者を志したきっかけを教えてください。

大学1年生のときから、研究者になるかならないかは別として、大学院には絶対行こうと決めていました。私が大学生のころは、私の親の世代と比べて大学進学率も上がっていました。だから、自分が勉強してきた専門分野をアピールするためには、最低でも修士は必須だと考えたのです。そういう経緯もあって、就職活動は一切していませんでした(笑)。
 でも、研究者になるかどうかは、実はギリギリまで悩んでいました。国際的な仕事をしたいとも思っていて、国連などの国際機関の職員になることにも興味を持っていました。それで、大学4年生のとき、先生方にいろいろと相談していました。その際、「研究者に向いている」「国際機関に勤めると、紛争地域などの危険な場所に配属されることもあり、一生孤独に生きることを覚悟しなければならない」というお話を伺いました。そのとき、気持ちは研究者の方に傾きつつありました。
 結局、最後まで決心がつきませんでした。そこで、東京大学大学院の研究者養成コースに合格したら研究者を、不合格になれば、すでに合格していたSFCの大学院(政・メ)に進学して、修士号だけ取って国際公務員を目指すことにしました。
 成り行きに任せた2択の結果、東京大学大学院法学政治学研究科・研究者養成コースに合格することができたので、研究者になることに決めました。
 

「院に行く前に一度社会に出てみては」―進路に悩む後輩へ

— 院に進学するかどうか、悩んでいるSFC生も多いですよね。

もし、皆さんのなかに大学院に進学するかどうかを迷っている方がいたら、できれば進学の前に一度社会に出てみることをおすすめします。社会に出てから大学院に戻ると、学問というものが新鮮に感じられるでしょうし、何より目的意識もはっきりします。私が教えている学生のなかにも、学部を出て社会人になってから大学院に戻ってきた人が結構いるんですよ。そういった人たちは、研究に対する姿勢がより強いように感じられます。金銭的な面でも、社会人時代に自分で貯めたお金を学問に費やすと、強いモチベーションにもつながるでしょう。親御さんも負担が軽くなって喜ばれるでしょうし(笑)。大学院の学費が高額なアメリカなどでも、学部を卒業したあとに一度働いて、学業資金を貯めてから大学院に進学するというパターンは多く見られます。
 
  

学生時代の写真を見せていただいた。


 

第1回目である今回は、廣瀬准教授のSFC生時代から、研究者を志すまでを振り返ってもらった。次回は、SFCの良い点や改善すべき点を語る。

【廣瀬陽子(ひろせ ようこ) 総合政策学部准教授】
1995年 慶應義塾大学総合政策学部を卒業後、1997年 東京大学大学院法学政治学研究科より修士号、2006年 慶應義塾大学より博士号(政策・メディア)を取得。アゼルバイジャン留学、日本学術振興会特別研究員、東京外国語大学非常勤講師などを経て、現在慶應義塾大学総合政策学部准教授。専門は国際政治、紛争・平和研究、旧ソ連地域研究(特にコーカサス)。