外国語教育や外国語との関わり方について考える「Languages」。引き続き、マレー・インドネシア語研究室の小笠原健二総合政策学部非常勤講師のインタビューをお届けする。イスラーム教徒が世界一多いインドネシア。しかし、中東とは大きく異なっていた。第3部では、インドネシアの多神教の世界と、インドネシアにおけるイスラームについて触れる。

『ゲゲゲの鬼太郎』の社会

—— インドネシアでは精霊や妖怪のようなものを信じる文化が根付いているそうですね。

そう思います。インドネシアの人たちの世界観は、人間たちの住む「目に見える世界」と、諸霊や諸神の住む「目に見えない世界」とから成っているようです。「目に見える安全な領域」と「目に見えない危険な領域」と言い換えられるかもしれません。諸霊・諸神は、木とか井戸とか交差点とか、森羅万象に住んでいます。彼らは、いま僕たちと一緒にこの世を生きている。今ね、そこにいるんです、いろんな神様が。

—— なるほど。日本人がヤオヨロズの神を信じることと似ていますね。

安全をお願いして、お礼をする。

そうすると、どういう社会ができあがるかな? この二つの世界はきっちり分かれていなくて、互いに影響を及ぼし合っているんですよ。僕たちの生きている世界は、常に「ゲゲゲの鬼太郎」に取り囲まれているのです。いつ何時「ねずみ男」から悪さをされるかわからないから、人々はどうするでしょうか?

—— 祈る、でしょうか。

そう、お願いするんですね。インドネシア語で「おはよう」は何て言いましたっけ?

—— Selamat pagi.(スラマッパギ) ですよね。

そうです。Selamat pagi……「朝が安寧でありますように」という意味ですね。つまり、人間は常に危険領域に取り囲まれているので、その領域に住む諸霊・諸神が人間に災いをもたらさないよう安寧をお願いするんですよ。諸霊・諸神への安寧祈願が日常の挨拶語になってしまうほど、インドネシア人の世界は危険がいっぱいなのでしょう。ところで諸霊・諸神が安寧を与えてくれると、人々はどうしますか?

—— それに対しての感謝でしょうか。

そう、お礼をする。これが「ゲゲゲの世界」との関係の基本パターンなんです。安寧をお願いし、叶えてもらい、そしてお礼をするというパターンです。たとえば、バリ島の家庭では、一日にお供え物を50個くらいつくります。家のあちこちに諸霊・諸神が宿っています。人間はこの諸霊・諸神との間で短期契約を結び、朝にお供え物をして、「きょうも一日よろしく安全を保障してね」ってお願いする。いつもいつも身の回りが危険にさらされているので、人々は落ち着かないんですよ。そして、安全であった一日を振り返り、夕方にもお供え物をして、「ありがとうございます」とお礼するんです。こんなふうに諸霊・諸神との短期契約関係を築いているんです。これが日々繰り返される基本構造です。

インドネシア社会を牽引する「媒介者」

だけど、ここで考えてみてください。たとえば火山噴火や洪水や旱魃などは、果たして短期契約だけで鎮まってくれるものでしょうか? おそらく一般庶民のお供え物だけでは言うことを聞いてくれませんよね。こうした自然災害を引き起こす諸霊・諸神は、短期契約の諸霊・諸神とは種類を異にしているように思えます。つまり、目に見えない危険な世界には、人間たちが「手なずけられる諸霊・諸神」と「手なずけられない諸霊・諸神」が住んでいることになります。火山噴火などの自然災害は、手なずけられない諸霊・諸神が引き起こすのです。一方、「ねずみ男」は手なずけられる諸霊・諸神のグループに入ります。お金で簡単に言うことを聞いてくれるでしょ。

火山噴火を「ゲゲゲ」のキャラクターにたとえると、誰になるでしょうかね? 「ぬらりひょん」、あいつは悪いんですよ。言うことを聞いてくれない。じゃあ、「ぬらりひょん」の抑え込みを誰に頼むか? 手なずけられない諸霊・諸神を抑え込むことのできる特殊能力を備えた「媒介者」、しかも強大な「媒介者」が必要になりますよね。媒介者は、霊能者だったり、何か不思議な力をもっている人だったりする。この人にお願いしてやっつけてもらって、最終的に安全をいただく。 
 
ここで注意してほしいのは、これまで語ってきた世界観はあくまでもイメージ図だということです。イメージ図では応用が可能です。たとえば、「手なずけられない諸霊・諸神」というのは「一般の庶民では対処しかねる存在」ということになるでしょうから、これを広く応用して解釈し、目に見えない諸霊・諸神だけでなく、テロリストやヤクザ者などを意味することにもなります。
 
こうした世界観を踏まえると、いろいろおもしろい疑問が生まれてきます。たとえば、いまインドネシアは民主化したと言われていますよね。民主化とは、みんなで一緒に話し合って物事を決めていくこと。では、人々が安寧を手に入れるには強大な媒介者を必要としますが、こうした媒介者待望論のインドネシア社会が民主化することは果たして可能なのでしょうか? ぐいぐいと社会をひっぱって行ってくれる強大な媒介者がいなかったらどうなるか? 諸霊・諸神やテロリストに治安を乱されるから、安全をいただくことができなくなっちゃう。落ち着かないでしょ。本来の民主化という枠組みの中では、インドネシアの人々は落ち着くことができないのではないか。だから、引っぱって行ってくれる人、強大な媒介者が必要な社会なんです。「ゲゲゲの鬼太郎の社会」っていうのは、媒介する人が誰かいないと人心は安定せず、困るんです。漫画の中だったら「妖怪ポスト」にポーンとお願いごとを入れれば、「鬼太郎」が解決してくれるけど、インドネシアではそうはいかない。問題は、手なずけられない諸霊・諸神をどうするかです。手なずけられない最大の敵「ぬらりひょん」に対して影響を及ぼせる媒介者がいる。これがインドネシアを引っぱって行ってくれる人なんですよ。

社会の「固有性」とは?

インドネシアは民主化した……でも、民主化したのであれば、強大な媒介者がいちゃいけないじゃない。この人ひとりで社会を牛耳ってしまうかもしれないんだから。
 
 そういうわけで、インドネシア社会に民主化が根づいているとか、根づき始めたとか、それはあまりにも皮相的な考え方です。資本主義なり民主主義を、システムとして入れればそれで社会は資本主義化し民主化したことになるの? 北朝鮮は共産主義をとっていますが、本当に共産主義なの? あれがマルクス、エンゲルスが高らかに唱えた共産主義なの? あれは独裁の世襲ですよね。システムは人間関係が動かすものだから、そして人間関係はエートスによって支えられるものだから、さらにエートスは人々の世界観が基盤となって生まれるものだから、民主主義という名前だけでその実態がわかるものではありません。
 
 その一方では、インドネシアは2004年から直接選挙で大統領を選んでいます。間接選挙ではなく直接選挙なのだから民主的とも言えますし、ひとりの強大な指導者を選ぶことになるのですから、媒介者を求めるインドネシア人の世界観に合っているとも言えましょう。システムと人間関係、人間関係とエートス、そしてエートスと世界観、これらの絡み合いが社会の固有性を作っていくのでしょうね。
 
 インドネシアの大統領の話が出ましたので、巷間ウワサされる「大統領になるための3条件」を挙げてみましょう。第1に、大統領は人口の4割を占めるジャワ人でなければなりません。第2に、多数派宗教のイスラーム教徒であることが必要です。残りの一つは、軍出身であることだそうです。なぜ軍の出身であることが大切なのでしょうか? そして不思議なことに、軍出身の大統領のときには政権が安定するんですよ。軍隊は、テロリストなどの「一般の庶民では対処しかねる存在」を撃破する武力を持っていますよね。強大な媒介者が諸霊・諸神を牛耳ることができるのと同じように、軍隊は社会の安寧を破壊するテロリストなどを駆逐できるのです。媒介者と軍隊のイメージがピッタリと重なります。大統領が軍出身でなければならない理由がわかるような気がしますね。

「見て、覚えて、真似をする」価値観

ところで、諸霊・諸神には好き嫌いあるんですよ。この社会は諸霊・諸神との交流が大切ですから、「この霊魂は蘭の香りが好き、あの精霊は影絵芝居が嫌い」といった具合に、その好き嫌いを人々は覚えているのです。子どものころから、お母さんと一緒にお祈りするときに覚えていきます。「ゲゲゲの鬼太郎の社会」では、まず大人たちの祈る姿を見るよね。見てどうすると思う?

—— 覚える。

覚えて、なにをする?

—— 実践。真似をするのですね。

そう、真似をするんです。これに対してヨーロッパでは、ここにキリスト教が出てくるんですよ。キリスト教の信仰はただ一つの全能の神様に対してだから、そのほかの諸霊・諸神は消えていきます。時代とともに徐々に消えていく。そうすると、昔は諸霊・諸神が住んでいた木が、単なる物体として残ります。すると、諸霊・諸神がいなくなったこの木を切って、町へ持って行って売ったら、これが売れたんですよ。家を建てるために必要とされるので。そこで、自分の周りにたくさん生えている木を、君ならどうする?

—— 全部切り倒して、売って儲けますね。

僕もそうすると思う。だけど、隣には他の人がいて、僕たちと同じことを考えているんです。そうすると競争になりますよね? だって、早く切って早く売ったほうがお金になるんですから。もう昔のような、魔神様が鎮座する御山ではなくなったんです。早く切って早く売った方が勝つ。そんなヨーロッパでは、競争社会ができあがって行くんでしょうね。では、早く切るためにはどうする?

—— 新しい道具をつくって、効率的に切れるようにしますね。

そう、道具。その進化形態が18-19世紀ごろの産業革命ですよね。だから、ヨーロッパでは、あるべくして工業化・産業化が起こるわけです。森の諸霊・諸神がいなくなって、木を早く切った人が勝ちだから。競争社会の出現です。
 一方では、15世紀半ばにグーテンベルクが発明した活版印刷によってルネッサンスが展開しましたよね。そして量産された聖書が普及する。聖書の教えでは、神の前ではみんな平等です。だけど、「神の前に平等なのに、なんで王様がいて私たちに無理難題を強いるの? おかしいじゃない」と考える人が出てくる。そうすると、人々には自我、平等意識、人権意識が目覚めない? 機械文明が展開する中で合理性が目覚めてきますよね。
 
 だから、ヨーロッパ社会は、機械化するなかで、聖書が普及するなかで、「ゲゲゲの鬼太郎」が消えていって、人々は聖書を読んで学んで一神教に帰依し、人権意識を発展させ、合理的な思想になっていく。人々が合理的な考え方をするようになるとどうなるか。森を見て、どうすればあの木を他の人よりも早く切れるかを考えて行動するようになりますよね。ヨーロッパでは「見て、考え、行動する」が主流になる。
 
 でも、インドネシアの社会は、「見て、覚えて、真似をする」が基本でしたね。これが親から子へ受け継がれていきます。そうしないと諸霊・諸神にいつ何時いじわるされるかわからないから、子どもは忠実に真似るんですよ。親に逆らってはいけない、覚えろ、そして真似をしろってね。

西洋式の「考える教育」?

受験勉強でたとえれば、ヨーロッパの勉強は、本質的には覚えて真似るものではなくて、自ら考えるんですよね。だから、そのうわべだけを見て、「インドネシアでも考える教育をしよう」とよく言われます。でもね、それが果たしてインドネシア人に合っているのかなあ。あと、「人の目を見て話そう」ともよく言われるけど、やっぱり怖いものが厳然とあって、これが彼らの日常生活をいつも取り囲み、それに対して目を上げられないこともある。諸霊・諸神に包囲された社会では、相手の目を見ることができなくても仕方がないことなんじゃないかな。
 
 インドネシア社会の受験は日本と同じで、覚えることが中心です。だから、考えて行動することで目立つ人、飛び跳ねる人は社会から嫌われる傾向が強いんです。こうした背景があることで、諸霊・諸神を含む他者との共生・共存を最優先し、目立たないように生きることがエートスの重要な徳目になっていきます。調和して生きろということです。上の人には逆らってはいけないということが通俗道徳として大きく出てくるんです。
 僕が言いたいのは、どんなことか。西洋の価値観が悪いとは言わないけど、僕たちはいつも西洋ばかりを上に見て、そこからいつも物申している。民主化が進んだ進んでいない、民主化が進んだから援助金を多くあげよう、まだ民主化が進んでいないから援助金をやめておこうってね。そうやって、形(システムなど)だけいつも見ているけど、もうちょっとおおもと(人間関係、価値観、世界観など)を見たほうがいいですよね。社会それぞれの固有性を大切にしてほしいということです。

多神教のインドネシア社会での、ちょっと位置づけの違うイスラーム

一つ問題があります。イスラーム教徒の信仰するアッラーの位置づき方についてです。本来、絶対的な唯一神であるアッラーは時空間を超越している。今もいるし、過去にもいた。SFCにもいるし、宇宙の最果てにもいる。つまり、この三次元空間を超越した存在なのです。宇宙全体であって、いつの時代の、どこにでも存在する。「ゲゲゲの鬼太郎」や「ぬらりひょん」は現世内で僕たちと一緒に生きている。しかしアッラーは現世内を超越した現世外にも存在している。
 
 じゃあ、アッラーの一神教と「ゲゲゲ」の多神教とは、どんな関係になっているのか? インドネシアにイスラームが伝播したことで、「ゲゲゲ」の諸霊・諸神はこの世から消え失せていったのか? いや、消えていないんです。これが問題なんですよ。唯一神アッラーがインドネシアに入ってはきたけど、既存の諸霊・諸神はその多くがそのまま存在している。諸霊・諸神が消えていないということは、かつてから在った諸霊・諸神の体系の中に、イスラームの神が組み込まれたということではないでしょうか。言葉を換えて言えば、これまで現世外に燦然と輝いていた一つ星のアッラー(絶対的唯一神)が現世内に呼び込まれ、諸霊・諸神の最上位に君臨する神(相対的最高神)となったのではないか。
 
 会社組織でたとえてみましょう。会社には、社長さんをはじめ、専務、部長、課長、係長、課員などがいます。僕たちは、この会社と取引をしています。この取引でごく些細な問題が生じたとき、僕たちはこれを社長のところにまでは持ち込まず、日々接する係長や課員と話し合って問題を解決しますよね。一方、もし僕たちの会社が倒産の憂き目に遭いそうなとき、この大問題は社長にまで具申されるかもしれません。アッラーは社長です。そして専務以下が「ゲゲゲ」の諸霊・諸神ということになります。発生した問題の大きさや種類に応じて、祈りを捧げる対象が変化するのです。たとえばジャワの人々は敬虔にアッラーに祈りを捧げますが、お金持ちになりたいときには赤ん坊の幽霊「トゥユル」に依頼を持ちかけたり、あるいは悪霊が汚した土地から邪気を払うときには地祖霊「ダニャン」にお願いをするかもしれません。インドネシアの目に見えない世界は、アッラーを最高位に抱いた会社組織をつくっているような気がしてなりません。インドネシアに入ってきたイスラームは、中東とは違って、アッラーの位置づけが時空間を超越した神様ではなくて、もともとある三次元の世界へと組み込まれた神様になっているようです。

しかし、現代になって、中東で勉強するインドネシアの人たちも増えてきた。インターネットで中東直輸入の教義を学ぶ人たちも増えてきた。そういう人たちは、諸霊・諸神に対する祈りを迷信だとして嫌悪し、アッラーだけを拝もうとするんですよ。だから、今、神様をどこに見るかという、せめぎ合いが出てきています。これが今のインドネシア固有のイスラームの問題でもあるし、今後イスラーム社会でも大きな問題になるかもしれませんね。

—— 現在、イスラーム教徒はインドネシアに一番多いのですよね?

はい。およそ2億5000万人のうち、9割がイスラーム教徒です。メッカ巡礼も、すごい勢いで行われています。巡礼には予約が殺到し、10年待ち15年待ちが普通になっている。現地のおばちゃんたちがあちこちでコーランを一緒に読む会を盛んに開いています。
 
 しかし問題は、さっきも言ったように、困ったときなんですよ。普段は、アッラーを信じて、みんなヒジャブをかぶって敬虔にお祈りしているけど、何かがあると全く違う行動をとる。
 たとえば、議員さんになりたいとすると、まず苦行をします。苦行をすることで、諸霊・諸神から力(神霊力)をもらいます。なので、総選挙が近づくと売れ行きが好調になるのが、神霊物、つまり神霊力を宿した短剣「クリス」なんです。このクリスに宿る神霊力で議員に選出されようとする。さらに、政治的墓参というのもあります。大きな権力を持っていた王様のお墓をお参りして、自分も神霊力を得ようとするんです。でも、アッラーを唯一信じるイスラームからすれば、そんなことはまずいんじゃない……!? それでもやるんですよ。
 
 さらに例を挙げれば、中部ジャワにはジョグジャカルタという古都があり、そこには今でも王様がいるんですが、2006年に大地震が発生し6,000人が犠牲となったときのこと。王様は庶民の不安を鎮めるべく、山の精霊と通じる霊能者(マリジャン翁)、海の精霊と通じる霊能者(スラクソ・タルヤナ翁)、そして著名なイスラームの導師(エムハ・アイヌン・ナジブ師)を呼んで一緒にイスラーム方式でお祈りをしたんです。それはアッラーに対してなのかどうか、もうわかりません。

—— 彼ら自身もよくわかっていないのかもしれませんね。

そう。おそらく彼ら自身であればもっとわからないかもしれない。僕たちは外国人として外から見ることができるからね。同じアッラーでも、インドネシアではちょっと位置づけが違うんですよ。おもしろいでしょ。

次回、第4部はインドネシア語特集最終回。多様な言語、宗教、文化。古いものをそのまま引き継いだ社会。緊迫化する中東のイスラーム情勢。さまざまな要素が複雑に絡まりあってもなお、したたかに、たくましく動く、インドネシア社会の「いま」に迫る。