「SFCらしさ」を再発見し、激変する社会におけるSFCの役割を見出す「復刻! CLIP Agora」。今回は、2010年に『やぎの冒険』で長編映画デビューを果たした映画監督・仲村颯悟さん(環2)に話を聞いた。現在、5年ぶりの長編2作目『人魚に会える日。』の公開に向けて活躍中。前編では、仲村監督がなぜSFCへ入学したのか、デビュー作『やぎの冒険』への道のりをたどりながら、その人柄や背景に迫る。

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仲村颯悟(なかむら・りゅうご)

1996年沖縄県生まれ。小学生のころからホームビデオカメラを手に、数多くの作品を制作。13歳のころに手がけた自身初の長編デビュー映画『やぎの冒険』(2010年)が国内外の映画祭に次々と招待されたほか、沖縄県内で大ヒットし、ビートたけしや塚本晋也監督からも絶賛された。

現在、慶應義塾⼤学環境情報学部に在学。5年ぶりの⻑編2作目となる『人魚に会える日。』の公開に向けて活動中。クラウドファンディングも実施している。

「海がないと生きていけない」 湘南の海に惹かれてSFCへ

—— なぜSFCへ入学しようと決めたのですか?

それはすごく単純な理由なんです。沖縄から見た関東は異世界、夢の国のような感じで、関東に出てみたいという思いはありました。ただ、海がないと生きていけないと思ったんです。そして関東の海を調べてたどり着いたのが湘南で、受験する大学より先に湘南に行くことを決めました。それから湘南の大学を調べていたら、“慶應”の名前があって。そのときは「え? 慶應って湘南にもキャンパスがあるの!?」と驚きましたが、すぐに受験することを決めました。

映画を撮り始めたきっかけは、純粋な遊びから

—— 映画を撮り始めたきっかけを教えてください。

今はちゃんと映画というものを撮っていますが、最初に始めたときは遊びの延長みたいなものでした。家にあったホームビデオカメラを自分で持ち出して、とりあえずボタンを押してビデオを撮る、回すということをやっていたのが始まりですね。その次には何か物語を書いてみようと思いました。近所の子どもたちを集めて映画を撮り始めたんです。テレビにつないで見ているだけだったのが、だんだん成長するにつれて一般の人にも見せなきゃいけない、と思い始めました。小学校高学年になると地域の公民館を借りて自分たちで上映会をするようになりました。当時はカセットテープを使用していました。全部重ね撮りでひも(テープ)がびよびよになって記録できなくなるまで使うということをしていたので、当時の作品は一つも残っていないんです。

「ただやぎを走らせたかった」 長編映画1作目『やぎの冒険』へ

—— 本格的に撮り始めた作品は何ですか?

『やぎの冒険』ですね。商業映画として撮ったもので、『やぎの散歩』という短編映画を長編化したものです。沖縄県が主催する沖縄観光ドラマコンペティションで、沖縄の観光のための映像作品のシナリオを募集していたんです。そこで選出されたら、応募したシナリオをプロの人たちと一緒に映画化する権利が与えられるというもので。中学1年生のときに応募したら『やぎの散歩』のシナリオが通ったんです。そして無事『やぎの散歩』を映画化すると、国内映画祭、さらには海外映画祭でも想像以上の反響がありました。そのシナリオを長編化してできたのが『やぎの冒険』です。

【やぎの冒険(2010年)】ストーリー: 那覇のまちに住む小学6年生の裕人(上原宗司)は、冬休みを母の田舎で過ごそうと沖縄本島北部の今帰仁村へ。優しい祖父母や子ヤギのポチとシロらに囲まれ、楽しい時間を過ごす裕人だったが、ある日、地元の人たちにつぶされるポチの姿を目撃する。ショックを受けた裕人を尻目に、今度はシロが売られることになり……。(http://yaginobouken.hungry.jp/) 【やぎの冒険(2010年)】ストーリー: 那覇のまちに住む小学6年生の裕人(上原宗司)は、冬休みを母の田舎で過ごそうと沖縄本島北部の今帰仁村へ。優しい祖父母や子ヤギのポチとシロらに囲まれ、楽しい時間を過ごす裕人だったが、ある日、地元の人たちにつぶされるポチの姿を目撃する。ショックを受けた裕人を尻目に、今度はシロが売られることになり……。(http://yaginobouken.hungry.jp/)

—— なぜ『やぎの散歩』のシナリオを書こうと思ったのですか?

観光がテーマだから沖縄の動物を使いたいと考えました。沖縄にはヤギと豚がいっぱいいるので、そのどちらかを使おうと思ったときに、豚はあまりかわいくないな、と(笑)。だから、ヤギを主役にして書きました。

—— 無邪気な気持ちがシナリオの原点になっているんですね。14歳で、ヤギの屠殺に関わる現場を映画化しようとするのはずいぶん大人びているな、と思います。

シナリオを書いたときは、ヤギを食べるために飼っているんだという命の大切さを映像化しようという意識はありませんでした。ただ単にヤギは沖縄にいる動物であって、沖縄では当たり前に食べるもの。そんなヤギの視点から見た沖縄ってどんな感じなんだろうということをすごく考えていました。その生き物自体に着目していたんだと思います。自分としては、ただヤギを走らせたい、その映像が見たいという気持ちが強くありましたね。

—— 『やぎの冒険』のなかの、飼っていたヤギが食べられてしまうという話は、沖縄の人にとって身近なことなのですか?

それ自体はとてもよくある話ですね。法律上、現在は自分たちでつぶすのは禁止されているので頻繁には行われていませんが、昔は非常に身近な出来事だったようです。おじいちゃんおばあちゃんは『やぎの冒険』を見て、「自分の小さいころの体験にそっくりだ」と泣きながら劇場から出てきたこともありました。沖縄の人にとっては共感できる部分が多かったと思います。

“楽園的な沖縄”には違和感がある―等身大の沖縄とは

—— 東京で生まれ育った私にとっては衝撃的です。仲村さんから見た“沖縄”はどんな場所ですか?

これまでも沖縄でいろんな映画が撮られていますが、そこで見る「沖縄」は、住んでいる人から見たら何か違うなっていうか。そこで描かれているのは“楽園的な沖縄”という印象です。青い海に青い空、優しい人がいて。どこか違うな、と思います。今までの沖縄映画は楽園的な沖縄を描いたものばかりで、沖縄の人が共感できるような沖縄を映画にしたものがなかったように思います。例えば、実は沖縄では晴れの日がすごく少ないんです。沖縄は亜熱帯なので曇りの日の方が多いんですよ。『やぎの冒険』を撮っているときは、普通の、日常の沖縄を映画のなかに込めようと決めました。あえて太陽が隠れるのを待って、曇りの日に撮ることも。そこはこだわって撮影していました。

「もう撮らないって思った」 映画を撮り続けるなかでぶつかった“壁”

—— 『やぎの冒険』を上映してみて、何か感じたことはありますか?

今まで公民館などで自分たちの知り合い、いわば身内にしか見せてなかった自分の作品が、沖縄県外や海外でも上映されました。一気に何十万人という人に見られ、さまざまな感想をいただきました。すごいねって声もあれば、一方で批判もされました。「この作品は中学生が撮ってないだろう」「ただ単に大人に利用されただけだ」という意見が多く、それにはすごく落ち込みました。多くの人に見せることによって、いろんな批判にも耐えなくちゃいけないんだなっていうことを実感しました。当時は中学生だったので、それに耐えられなくて…。今までただ楽しく撮っていた映画には、こういう辛いこともあるんだということを『やぎの冒険』を撮ったあとに感じました。

—— 『やぎの冒険』を撮ったあと、長編2作目までに期間が空いているのはそういう経緯があったんですね。

そうなんです。もう撮らないって思いました。『やぎの冒険』は偶然プロの方に支えてもらうチャンスをいただいて撮ったものだし、そもそも映画監督になりたいと思っていたわけでもなかったので。もちろん映画が嫌いになったわけではないですが、もういいやって思いました。その後も沖縄観光の映像などは依頼が来たら撮っていましたが、「伝えたい」という気持ちで撮っていたわけではありませんでした。怖かったんだと思います、周りの目が。

楽しくてたまらなかった映画を撮り続ける上で、初めてぶつかった“壁”。13歳という若さで仲村さんが感じた痛みは、計り知れないものだったのだろう。それでも彼は5年の歳月が経て、再び長編2作目である『人魚に会える日。』を制作するため、メガホンをとった。彼を駆り立てたものは一体なんだったのか。そして長編2作目『人魚に会える日。』にはどんな思いが込められているのか。後編でお伝えする。

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