「団結のために選択された言語」マレー・インドネシア語研究室 小笠原健二講師インタビュー【第2部】
外国語教育や外国語との関わり方について考える「Languages」。インドネシア語特集では前回に続き、マレー・インドネシア語研究室の小笠原健二総合政策学部非常勤講師のインタビューをお届けする。第2部では、インドネシア語はどのような言語であり、なぜ簡単なのか、その「理由」にせまる。
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外国語の語彙を取り入れやすい言語
—— ところで、インドネシアではアラビヤ語は普及していますか?
単語レベルでは普及しています。メッカ巡礼をする人が急激に増えていて、その人たちが砂漠の世界から直輸入で持ち込んだ語彙が、インドネシアでも使われ始めたというわけです。その影響で、以前よりもアラビヤ語の語彙は格段に増えていますね。ただし、文章として増えるというよりも、一つひとつの単語、ある儀式の名前とか、いろんな名称とか、あくまで借用語として、単語レベルでの普及にとどまっているようです。
—— 日本語でいう「カタカナ語」のようなものでしょうか。
そうですね。日本語もインドネシア語も、言語学の形態論では膠着(こうちゃく)語に分類されています。例えば「スポーツ」という単語があり、後ろに「-する」という接尾辞をつければ動詞になる、といったようなものです。同じように、インドネシア語も単語のもとがあって、前後にくっつけることで、「スポーツする」のように品詞や意味に変化が生じます。「スポーツ」はインドネシア語で「olahraga」で、それに「ber-」をつけることによって「berolahraga」=「スポーツする」になるのです。
このようにインドネシア語は、アラビヤ語に限らず、外国語の語彙を取り入れやすい言語なんですよ。外来の語彙の前後に、「-する」などを接続させるだけで、品詞を変えて使えるというわけですね。
簡単だから「選択された」インドネシア語
—— インドネシア語は、ある種の人工言語だという話がありますが、本当ですか?
いや、古くからあった言語なんですよ。もともとは商人が使っていた言葉です。そんな商人たちを通じて各地域に散らばったというわけですね。
15世紀から16世紀にかけてマレー半島南部で栄えたマラッカ王国は、ビジネスマンの王国でした。マラッカ海峡というインド洋と太平洋を結ぶ船の通り道、つまり東西文明の通り道で栄えた王国で、いろんな物資があるわけです。これを携えて、インドネシアのあちこちに出向いて商売をするわけです。商売をするときは、簡単な言語を使えれば便利ですよね。そんな単純な理由で、彼らの言語は商売に適した非常に簡単なものになっています。そんな言語が、各地の港で流行っていきました。
そして、独立指導者は、その流行っている言語に目をつけて共通語にしようとします。それと同じレベルで、宗教者、特にキリスト教を説く人も、これに目をつけて普及させるんですよ。いずれにせよ、インドネシア語は、簡単な構造に「つくりあげられた言語」ではなく、簡単だから「選択された言語」なのです。簡単な言語がひとつあれば、バラバラな地域であっても、こっちの島の人もあっちの島の人も同じように学びやすいですよね。みんながひとつの言語を学ぶことにより、意思の疎通が図りやすくなる、意思の疎通が図れれば、独立するためのまとまりも強くなってくる。言葉で。独立戦争(第1部参照)に向けていくと、こういう流れになるわけですね。
すばらしいのは、独立に向け言語を選択したという偉大さです。簡単であるというところに目をつけたという。もし、ジャワ人の人口が多いからといってジャワ語に目をつけていたならば、日本語と同じように独自の文字を持っている上に敬語体系のある言語なので、「食べる」「いただく」「召し上がる」の変化を覚えなくちゃいけなかったんですよ。そんな複雑な言語を、互いに遠く離れた人たちが学び、互いの気持ちを通わせるためには相当な時間がかかっちゃうでしょ。すると独立運動なんかできないわけです。まとまらないから。だから、当時の指導者の多くはジャワ人だったものの、「俺たち」のジャワ語を共通語にはできなかったのです。ジャワ語を共通語にしてしまったら、「俺たち」はいいけど、独立を望む地域全体としてまとまらない。じゃあ、地域全体としてまとまるには、ジャワも含めていろんなところで共通語のように商売で使われているマラッカ王国の言葉を使おうよ、それで独立の機運を高めていこうよ、こういう話になったわけですね。それで、その言葉を「俺たちの言語」にしようと決めるのが1928年なんです。この取り決めは、青年の誓いとして第2回インドネシア青年会議で採択されました。
青年の誓い(日本語訳) |
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一、我々インドネシア青年男女は、一つの祖国インドネシアを承認する。 |
二、我々インドネシア青年男女は、一つの民族インドネシア民族を承認する。 |
三、我々インドネシア青年男女は、統一言語インドネシア語を尊重する。 |
人が働きかけて広がったインドネシア語
—— 英語が広まったのは、英米が強くかつ英語が簡単だったという理由があると思います。インドネシア語の場合は、人がインドネシア語を普及させるように働きかけてきたわけですね。
そうです。それぞれの港の共通語としてあった言葉を、みんなで使っていこうよという人々の行動で広まっていきました。港の商売言語だったから、山奥の人はもしかしたら話さなかったかもしれませんね。ただ、イスラーム教やキリスト教の布教者たちが川をさかのぼり奥地へと入り込んでいるので、そういう人たちによって言葉も運ばれた可能性があります。いずれにせよ、各地の港を中心に伝播していったわけです。だから、繰り返しになるけど、インドネシア語は、つくられた言語というわけではなくて、商売で広まっていたところに、それに目をつける人が出てきて、最終的には国が音頭をとって発展させていった言語ということですね。
—— 「インドネシア語」と呼ばれるようになったのはそれ以降ですから、まだ100年も経っていないのですね。
はい、「インドネシア語」という呼び名自体は100年も経っていませんよ。興味深いことに、インドネシアの人はバイリンガルなんですよ。インドネシア語という全体をおおう傘があって、その下にジャワ語やバリ語、あるいはアチェやパプアの言葉などがある、そういう言語配置になっています。
—— 普段は各民族集団の母語を話して、ほかの民族集団と話すときはインドネシア語を使うわけですね。
そういうことです。ただ、現在ではインドネシア語自体も彼らの母語になっています。私の妻はジャワ人で、ジャワ語とインドネシア語を話します。ですが、彼女もほかの人も皆、自らをバイリンガルだとは思っていないでしょう。そのぐらい自然に、混沌と溶け合った一つの言葉として認識しているようです。
—— 溶け合うという感覚に限れば、方言のようなものでしょうか。
そうですね、大雑把な感覚として、インドネシア語の立場から見れば方言のようなものなんでしょう。
—— やはり本人からすれば、別の言語を話しているという意識はない、と。
ないでしょうね。違う言語だという意識はあるけど、全く別の言語だという意識はないと思います。おもしろいのはね、夜行バスに乗ったときのことなんですよ。例えば、僕の妻のいるジョグジャカルタ(特別州・ジャワ島中南部)というジャワ語の世界から、ジャカルタ(首都・ジャワ島北西部)に行きます。出発するときは、みんなジャワ語を話している。翌朝、到着して、目覚めて皆で話すでしょ。朝飯を食べたりするでしょ。そのときは、インドネシア語になってるんですよ。おもしろいね。今度は逆ね。ジャカルタからジョグジャカルタまで帰ってくる。そのとき、出発するときはインドネシア語を話している、ジャワ人同士で。それで朝が来ると、もうジャワ語。わかりますか、この感じ? 大阪の人が東京に来たら標準語になって、大阪に戻ると大阪弁を話すというような感じでしょうか。
—— ジャワ語には文字があると伺いましたが、インドネシア語にはもともとあったのですか?
アラビヤ文字を使っていました。
—— なるほど。イスラームが商業宗教だからアラビヤ文字が広まったのでしょうか?
そうですね、イスラーム地域で、しかも東西文明の交流点であるマラッカ海峡ですからね。イスラームに乗せて、商売に乗せて、広まっていったのではないかと思われます。
—— そして必然的にイスラーム化していったのでしょうか?
必然というとちょっと違うけれど、もともとはアニミズムやヒンドゥー教、仏教が主でした。それが、16世紀にヨーロッパの人々がやってくると、彼らは自分たちの欲しいもの、とくに香料などを略奪していく。産業革命以降は、資源や労働力、市場が必要になるので、土地の支配は「旨味」をもたらします。それで、植民地支配が到来するわけですね。この植民地支配に抵抗するための求心力として、ヒンドゥー教や仏教に取って代わったイスラームが力を得るわけです
インドネシアはイスラム教徒が世界一多い国として知られている。しかし、インドネシアのイスラームは、中東のそれとは大きく異なっていた。次回、第3部では、インドネシアの多神教の世界と、インドネシアにおけるイスラームについて触れる。